栗のいがと放下

昨日のつづき

行あきや  手をひろげたる  栗のいが  芭蕉

これも絵が浮かんできそうな秋の句である。芭蕉の故郷は栗の産地。
栗のいがが開いている。はじき出て、実はそとにある。そんな情景を、実をこころととらえ、こころを外に出し、いがで囲まれた身体を包み込むようにする、そのことを読んでいると言われる。


一瞬?。想像が追いつかない。講師はこう続ける。
「実は身体の中にあると考えられていますが、真の精神の自由を考えると身体の中に閉じ込めるものではない。いがをかぶり、身体を硬くするほど、こころも硬くなっていく。こころが硬いとまた身体も硬くなる。


そうではなく、いがを開き実(こころ)を身体の外に置く。こころを身体の周りに漂わせる感覚でしょうか。そのこころで身体を包み込むようにすると、喜びや慈しみといったなんとも言えない至福の感情が得られていくのです。」


むずかしい。C講師は言葉をいろいろ置き換えながら説明してくれた。それによると、座禅とか瞑想の時に得られるこころの状態、それに近い。放心とか天心、放下(ほうげ)というような感覚と言えるかもしれない。なんとなくわかるように思うけれど…。


実際私はまだ経験してはいない。もしそのような精神になれたなら、きっと今日のような頭痛や肩こりなども消え、心身ともに自由に解き放たれるであろう。この言葉(句)を携えながら、いつの日か訪れんことを…。