へばりつく木の葉

月一の古典散策の会。今年は『芭蕉七部集』

まつ茸や  しらぬ木の葉の へばりつく  芭蕉


芭蕉は言葉で描く景色ばかりではなく、そこにとても深い読みが含まれているとC講師はいつも説く。これもまつ茸を(待つだけ)と。木の葉を(言の葉)と捉える。


本来なら生を受け、ただ死を向かえ待つだけの存在である私たちなのに、勝手な解釈の言葉がへばりつき、まつ茸であるという本質も隠されてしまう。僧籍を持つC講師ならではの解釈である。


人生は生まれ、そして死を迎え待つ間のひと時のこと。その間にいろいろな出来事が出入りする、それが人生模様というわけだ。そこで交わされる言葉たち。言葉は豊かさを生む。だが、へばりついてくる言葉にとらわれてしまうと、本来を見失い、真実が見えなくなってしまう。

脳裏にへばりつく言の葉ね…。とてもリアルな情景。なかなか拭い取るのはむずかしいことである。だが、それに絡めとられてしまうと、すばらしいはずの景色も見ることはできない。もったいない話である。


そういう解釈で読んでみると、ぐんとこころに沁みる句になる。茸取り名人は茸が立ち上がるように見えているのだろうが、凡人が木の葉に埋もれた茸を見つけるのはたやすいことではない。それでも、木の葉を振り払いながら、茸を見つけるとしよう。
(つづく)