「来たるべき」でいい

歓談の話から想起したもの。備忘録として。

辺見庸藤原新也氏の発信は読むようにしている。(藤圭子死亡に関しての記事は、陳腐なコメントの中で唯一心に残った)辺見庸と新也氏の言葉は重さがあります。

でも次の世代に伝染していないかな?北山修氏は戦争を知らない子どもという存在を歌っている。それが現在まで訂正されることなく歌えることは幸せなことだと思う。だが、歌うのはシニア世代に留まっていないか…。(嫌な言葉だが、あえて)バトンを受け取って走る人が見当たらない。

斉藤和義は「僕の見たビートルズはTVの中」で歌う。雨の降る日はどこへも出たくない/だけど大切な傘がないわけじゃない…と。食うに困ったことも、欲しいものもない僕は、マシンガンも撃ったことなどないが、ブラウン管には今日も戦車が走ってる。解らないものは解らないけどスッとしない、けどひねくれているばかりじゃ能がない、かといって波風のない空気は吸いたくない…と次の世代として歌っている('93)。その空気はわかるのだが、今やイマジンはTVの中でもなくPCやスマホの中なのだ。

その間の考察は省略。
で、欲しいものが出過ぎている現代に、モノをすくってきたザルから落ちたものの欠落に気がつき始めた気がする。震災でモノが消えた後、人々は思い始めたのではないか。

私と言えば、このドサクサで泥地から浮き上がってきた現実に、戦後民主主義がお題目にすぎないと愕然とした。が早々に決めつけて、諦めたり否定してはいけないと思う(批判・否定は結果、バトンを落とす(寸断)ことになる。先人たちの悪い癖)

74年生まれの哲学者国分功一郎は、住民として行政に触れ愕然としたという。「こんなことになっていたのか」と。住民投票を行った経験から、これからは選挙だけではなく、行政と一緒に地域を考えていくというスタイルの民主主義を、と提唱する。
『来たるべき民主主義ー小平市都道…』幻冬舎新書 

若者たちを見ていて「釜の中の蛙たちが茹でられる前に」と少々歯がゆい。でもバトンを拾った人たちも増えている。持って走る人はどんな走り方でもいい、どんなスピードでもいい、コケてもいい。

「来たるべき」って、いいかも。先人たちは訳知り顔をせず、声援はするが、邪魔はしないことだね。

たとえ明日世界が滅びようとも

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瓦礫の中から言葉を わたしの〈死者〉へ (NHK出版新書)

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