慣れない

四方田犬彦氏のコラムにこんなことが書かれている。

わたしが11月中旬に沖縄に滞在していたころ、現地の新聞は、1990年代からこの方、軍用機が劣化ウラン材を320kgにわたって無断で沖縄に持ち込んできたというニュースで大騒ぎだった。東京に戻ったわたしは、同じ時期の新聞にそれが掲載されているかを確かめようとした。はたして何の報道もなかった。劣化ウラン材は、わたしがかつて滞在したコソヴォで使用され、深刻な後遺症をもたらしている。わたしはそれを、直接に住民たちから聞いた。

アフガン、イラクなどにおける劣化ウラン弾の使用疑惑、その影響と思われる小児癌などの急増と、いろいろ噂はあるが、深刻さがなかなか大きな流れには至らない。上記の件に関しても、直接の被害はないからなのか、それともなにか意図があるからなのか…

ウラン、核、放射能関係の反響を振り返ってみると、だんだん緩慢になっている気がする。そして、水面下ではなにかがシフトしている気がしてならない。

言葉というものは、不思議なもので、最初はとても違和感を感じたものが、何度か聞くうちに、違和感、不快感といったものが薄らいでいく。平気になっていく。情報も同様。激しく反応したものが、無反応になっていく。脳には「慣れる」という習性がある。違和を持ち続けるには意志がいるのだ。