ネットメディアと地上波

新年以来世の中喧しい。だが、大手メディアとネットなど新しく小規模なメディアとの空気はずいぶん乖離しているように思う。方向も温度も違う別物のようでさえある。マスメディアの見解と私の周りの人々との見解も乖離している。で、感じていた違和感の一つについて町田康がコラムで書いている。あるブログから知ったのだが、溜飲を下げるコラムであった。好きな作家の1人だが、さすがの表現力。


「責任のへらへら」

いまの年齢になるまで物事に対する責任というものをちゃんと果たさないで適当にへらへら生きてきた。なぜかというと、その方が楽だったからだが、しかしこれからはそういうふざけた態度で生きていられなくなるかもしれない。なぜかというと、ここ数年で責任ということを追求する人が急激に増えたからである。


最近は説明責任を果たせと言って怒る人が増えた。この場合、何が恐ろしいかと言うと、説明をしていない、といって怒られるのではなく説明する責任を果たしていない、といって怒られるのが恐ろしい。


それのどこが恐ろしいかと言うと、例えば「午飯にすうどんを食べた」ということについて説明するのであれば「すうどんを食べたかったから」と嘘偽りない正直な気持ち、そしてまた事実を述べれば済む。しかし、説明責任となるとこれでは済まず、世間が納得するまで、ということは世間の興味・関心に沿い、そのうえで世間が納得し、気に入って満足する説明が出てくるまでずっと責任を取り続けなければならないというところが恐ろしい。


さっきのすうどんの例で言うと「すうどんを食べたかったから」と説明しただけでは説明責任は果たしたとみなされず、さらなる説明責任を問われる。

「なぜ、わざわざ味気ないすうどんが食べたかったのですか。おかしいじゃないですか。なぜ天ぷらうどんにしなかったんですか」

「実はお金がなかったのです。お金がなかったのですうどんで我慢したんです」

「なぜ、お金がなかったのですか」

「そんなことまで言うんですか?」

「当然です。説明責任というものがあります」

「昨日、お金を遣い過ぎたからです」

「何に遣ったんですか」

「それも説明責任ですか」

「そうです。説明責任です」

「・・・・・・ソープランドというところで遣いました」

「それはなにをするところですか」

「女性の方の接待を受ける場所です」

「なぜ、そんなところに行ったのですか」

「・・・・・・申し訳ありません・・・・・・」

「それはあなたが人間として最低最悪の脳味噌スポンジ鼻下6メートル級エロバカオヤジだからじゃないのですか」

「はあ?聞こえないんですけど」

「そうです」

「わかりました。ではあなたの口から説明責任を果たしてください」


「はい。私が午飯にすうどんを食べたのは私が人間として最低最悪の脳味噌スポンジ鼻下6メートル級エロバカオヤジだからです。申し訳ありませんでした」というところ、すなわち世間の興味・関心に沿い、そのうえで世間が納得、気に入って満足する説明が出てくるまで説明しないと説明責任を果たしたとは言えないのである。恐ろしいことである。


そのちょっと前は自己責任ということをいう人が多かった。似た言葉で自業自得という言葉が昔からあるが、自業自得が、あくまで自分単独で行なった行為による責任を指すのに比して、自己責任というと、それがたとえ法律の不備や偶然の不幸や運・不運みたいなところにまで拡大して、自分の身に起きたことはすべて自分が決定したことゆえ、自分ひとりで責任をとらなければならない、というニュアンスを帯びて恐ろしい。


そんなことで自分以外の他人にいろんな責任を負わせて怒る、という傾向はこれからますます強くなっていくに違いなく、油断をしていると思いもよらない、眼鏡責任、すし飯責任、ヘゲタレ責任、牛丼責任、散髪責任といった各種の責任を取ることを強く求められ、とても苦労をするのではないか、と思うと心配で心配で夜の目も眠れず、日中睡眠不足でぼうとしているものだから期日を過ぎても約束した仕事が完成せず、このままいくといずれ責任を追及されるのだろうなあ、厭だなあ、と思いつつ、いまのところは何も言われてないので、奥村チヨのヒット曲「中途半端はやめて」(作詞なかにし礼、作曲筒美京平)を、「いざとなったら手を合わせぇ逃げるというの?責任とって、責任とって」なんて、くちずさみつつ、昼酒を飲むなどして赤い顔でへらへらしている。いまのところは。いまのところは。

くっすん大黒 (文春文庫)

くっすん大黒 (文春文庫)