加齢は老いさらばえ貧相になるばかりではない。歳を重ねるごとにいい顔になる人がたくさんいる。悲喜こもごもを経た人生の厚みというようなものを感じさせる。緒方拳もそんなひとだなぁと思っていたが、突然の訃報。
藤原新也氏が日記で緒方拳氏の訃報に触れている。
http://www.fujiwarashinya.com/talk/index.php

その中で骨格という言葉で書かれていることがこころに刺さる。

(略)
「骨格」という言葉がある。
 人はみなその死の世界に等しい骨格を所有している。その骨格を見失い、それを被う肉のみがぶくぶくに肥大化し、肉に発生するたくさんの煩悩によって人は右往左往する。自らの身体を形作る骨格という普遍を見つめ、意識することで肉の氾濫は制御できるはずである。

 だが「メメント・モリ」には「人間は肉でしょ。気持ちいっぱいあるでしょ」というそれとは矛盾し、相反する詩もある。(略)

そういえば中也の「骨」という詩もあったなぁ。

ホラホラ これが僕の骨だ
生きてゐた時の苦労にみちた
あのけがらはしい肉を破つて
しらじらと雨に洗はれ
ヌックと出た、骨の尖(さき)

(略)

ホラホラ、これが僕の骨――
見てゐるのは僕? 可笑しなことだ。
霊魂はあとに残つて、
また骨の処にやつて来て、
見てゐるのかしら?


故郷の小川のへりに、
半ばは枯れた草に立つて
見てゐるのは、――僕?
恰度(ちやうど)立札ほどの高さに、
骨はしらじらととんがつてゐる。


ちょうどいま骨に注目したボディーワークをしているところ。毎回骨を意識している。骨がきちんと作動していれば、それなりの筋肉が付き、いらぬ脂肪はつかないはずだと・・・それにしても肉の氾濫とは痛烈な言葉である・・・

メメント・モリ

メメント・モリ

中原中也詩集 (新潮文庫)

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