不都合な他者について

連休明けの新聞に辺見庸氏の文章が載っていた。
友人たちが参加していた講演会についての感想である。講演テーマは「死刑と日常」。

まず、たくさんの人の海に怖気づいたか、のどに最初のことばをつめたまま、それを発生したものかためらっていた、とある。そして口をついて発せられたことばは「私たちは<不都合なもの>を愛せないのだろうか」というものだった。

それから、彼が年来胸底に居座ったままにあったことばが講演が近づくにつれのどにせりあがってきたのだということばを紹介する。その言葉とはマザー・テレサの詩の一節。

主よ・・・本音に気づかされました。私が愛していたのは、他人ではなく、他人のなかの自分を愛していた事実に。主よ、私が自分自身から解放されますように

彼はキリスト者ではないがこの言葉に打ちのめされたというのだ。彼ほどことばを大事にし、選択し、重厚な文を編んでいる人は少ないと思うのだが、「ことばの重みに堪える魂を育てずに、漫然とここまで生きてきた」と言い、そして、死刑を黙認する心のありようをも、この詩は強く問いかけているのではないかと、自問するのだった。

そして参加した人が印象強かったという「世間」について述べられる。愛と優しさをしきりにとなえながら、そのじつ「不都合なもの」を受容しない世間。相次ぐ死刑執行にも見て見ぬふりをし、過ごしていく日常への欺瞞。犬や猫の処分に怒り涙を流す者たちが、人間の絞首刑に泣きもしないのはなぜなのかという懐疑。彼はそこに個をうしなった世間という存在と、国家との黙契ができてしまっているのではないかと問う。きびしい指摘である。

さらに彼は聴衆と自分に問いかける。この国は「個の尊厳」を前提とした本来の社会(ソサエティ)という概念はあるのだろうか。本来のそれは、殺人者に対する国家の抹殺をまったく意味しはしない。しかし、この国は社会というより、個が埋没した日本独特の「世間」という時空間が、死刑制度をささえているのだと自覚を促す。

彼は熱く、さらなることばを続けたようだ。
そしてまたマザー・テレサのことばが浮かぶのだ。「人は不合理で、非論理的で、利己的です。それでも人を愛しなさい」と。

そんな彼の熱い思いを粉砕するように、その5日後、4人が絞首刑に処されたというニュース。震える手でこの原稿を書いたと文は結ばれている。4人の絞首刑は講演の返答のようだと・・・。彼の落胆を想う。

言葉と死 (辺見庸コレクション 2)

言葉と死 (辺見庸コレクション 2)

たんば色の覚書 私たちの日常

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