「悪人」の意味

unaでの『歎異抄』を読む会は、有名な悪人正機の章(三)。
 

「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを世の人つねに曰く、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をやと」。

C講師は、「善人」とは単純に善いことをする人ではなく、善いことをすれば、見返りとして何かを成せると思っている人のことで、一方「悪人」とは、人間とは善いことをすることで何かができるという存在ではなく、もともと不十分な存在であることを自覚し、本願他力を思う人だと言われた。

従って、悪人正機の解釈は、悪人をこそまず救うという性善説的な視点でもなく、悪人こそ救済されるのだから、いわゆる悪事をしても許されるということでは、全くないのであった。C講師は仏教と、基督教を納めている方なので、まともに読み解いている人はなかなかいないと言われていた。そして、「悪人」はキリスト教のいう「罪人」に通じると言われる。なるほど。こう解釈すると、納得できる。

そして、

自力作善(じりきさぜん)のひとは、ひとへの他力をたのむこゝろかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず

と続いていく。本願とは人間の願いではなく、弥陀の願い。自力作善とは、ヒューマニスト。つまり善いことをすれば、何かを成せると思っている人、人としての欲望を願う人を指し、そういうことは弥陀の願いではないということなのだった。

うーん、そのような生き方はなかなか哲学的であり、今日的でもある。そして魅力的に思える。

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