キタヨ キマシタ・・・

to know  でも
to do   でもなく
to be   であると。

月に一度の古典を味わう会『歎異抄』。
C講師の話を聞くたびに、現代の問いかけと重なる。「生死の認識(知識)の前に人の生命はすでに生命は完成して存在している」。このことはとても哲学的であり、じつは周知のことなはずである。しかし、そのことをついつい忘れ、うろうろ彷徨ってしまうのだ。

親鸞の説く念仏については折々に触れてくださるだろう。まったくの無知ゆえ、阿弥陀とか念仏そのものをわかっていない。阿弥陀様とか言われているので偶像を思うのだが、阿弥陀とは無量光と言われ、無限の空間のようなのである。入り口として買った藤本義一の『歎異抄に学ぶ人生の知恵』は読みやすい。そのなかに、念仏の記述がある。著者の藤本義一氏が現代語で解釈すれば こんなふうになるのだそうだ・・・

ミンナ、ミンナ、イキテイル
ヒロイ、ヒロイ、ココロヲモッテ
セマイ、セマイ、ココロハナイ
ミンナ、ミンナ、ヒロイココロダ
ソノ、スバラシイココロヲ
トモダチドウシデワケヨウ
ミンナ、ミンナ、イキテイルワケヲハナソウ
イキテルコトノスバラシサヲハナソウ
・・・・・・・・・・略

耳慣れているギャテイギャテイハラギャテイ・・・は

キタヨ、キマシタ、キレイナトコロヘ

と、なるのだそうだ。ラップみたいなノリである。藤本氏は般若心経は迷いを離れ、事物の真相を見抜こうとする陽気なお囃子だと考えた。念仏とは結構直球ストレートなのだった。くり返し唱えるものは単純でリズムのあるものがいいのかもしれない。なるほどね。

教行信証 (岩波文庫)

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歎異抄 (岩波文庫 青318-2)

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