考える≒妄想

この頃、身近ではないが、思いがけない人の訃報をよく聞く。「まだ生きていてほしかった」とか「残念」という感情を抱きながら、そもそも「死」とはなんだろうという問いが、まわりにふわふわと漂っていた。あるとき、「なぜ死が悲しいのだろう」とふと思った。すると、死と生殖という言葉が浮かんできた。死に対する悲しみとか不安というものは、有性生殖であるからではないのか・・・と。

二つの異なる性が融合し全く違う生命が創られる。それはどちらとも共有する遺伝子を持ちながら、どちらでもなく、それぞれ独立した個体となる。つまりは、他者という三者の存在がそこにはあるのだ。そして、出現とともに個の消滅が成立する。

想起したことがらを追いながら、勝手な解釈を進めてみる。無性生殖というイメージは分裂とか増殖。自分の一部の分離と発展。そこには他者の存在はないのではないか・・・ 他者という存在があるから、自己が派生する。自己の消滅は他者の死から知覚される。もし無性生殖なら、消滅を死と知覚するだろうか?出現も消滅も一つのなかで起きていることとすれば・・・どうなのだろう。

一方、その関係には、愛(感情)というものが介在することを考慮するとなると…もうわからなくなる。考えるべき要素が広がりすぎる。ひとまずここまで。ただ、有性生殖で個というものが成立したとするならば、同時に死というものも成立したのではないか・・・そんなことを漠然とながら思う。