伝統芸術の継承と進化

年老いて思うように遠出ができない義母と、区の施設で毎年かかる文楽を観賞するようになって3、4年経つだろうか。誕生日月ということもあり、お祝いの意味も含めて。今年も不安ながら、なんとか行ってくることができた。


学生時代京都に住んだ義母は、三味線の高名な鶴澤なにがし氏と親交があったらしく、文楽はずっと観てきた人。おかげで私もお相伴にあづかったというわけだ。人形浄瑠璃文楽と言われ、人形浄瑠璃とも、文楽とも言われる。浄瑠璃とは楽器を弾きながら語りをさす。文楽はそれがかかる小屋を言うらしい。


その程度で、いまもって詳しくはないが、毎年思う。さまざまなパートが息を合わせた高度な総合芸術だということを。芸としてスゴイものがある。人形一体だけでも3つのパートに分かれ、それに台詞パートとしての義太夫、音響パートとしての三味線。ほかに装置、影での鳴り物など。


初心者向けの解説によると、語りである義太夫の台本は、当時のままを継承しているそうだ。文楽は伝統のそのままを稽古し、体得したものを、次に手渡されてきたもの。しかし、だから文楽は過去のもの、ではなく「今」のものなのであると強調されていた。物語ももちろんだが、この“芸”を伝承することに、意味があるのだろう。


今年は「菅原伝授手習鑑」。スゴイ内容である。菅原道真藤原時平によって大宰府に流された。その子秀才を書の弟子が自分の寺子屋で匿う。しかし、時平から首を打てという命が下る。そんな折り、母が賢そうな子を連れてくる。窮地にたたされた弟子夫妻は、その子を身代わりにしようとする。


そして時平の家来松王丸に打った首を差し出すのだ。固唾をのむ夫妻に秀才の首と認め、松王丸は引き揚げる。そこに母親が現れ、すったもんだの末、弟子夫妻はことの次第を知ることになる。


実は、打たれた子どもはなんと松王丸夫妻の子であった。いまは時平側ではあるが、かつて恩義になった道真のために、わが子を差し出したというわけなのだ。そして松王丸夫妻は白装束となり、残ったわが子の遺体を野辺に送る。


スゴイ内容で驚いた。「人間の情愛」を描くと言うが、、、悲劇と簡単に言うが、、、言葉以上。現代に置き換えるものが見当らない。恩をいただいた方のために、わが子の命を差し出すなんて。悲しすぎです。


翻って、現代はそんなむごい悲劇のない平和な時代か・・・と考える。恩義もなく、人にでもなく、見えないもののために、結果的にそういう結末を招いているものは、あるのではないだろうか・・・

あらすじで読む名作文楽50 (ほたるの本)

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