気持ちの交換と経済

以前は毎日のように更新していたが、このごろ疎くなっている。というのは、SNSに時間と手間をとられているからなのであった。本来はここで続けていたわけで、なんとかしたいと思っている。そこで時々ダブりもアリとしようと思う。しかし、書く場が違うと微妙に違和がある。なぜか。不思議である。その辺だけちょっと手を入れて、なるべく更新頻度を高くしたいと思った次第。


日本全体で新聞講読をしている戸数はいかほどになるだろうか。かなりの数にのぼると思われる。想像するに、そこには膨大な市場が存在していることだろう。そう思ったのにはちょっとした理由があったのだ。


私は長きに渡り、一紙を講読し続けていて、浮気をしたことがなかった。今回転居に伴い、新しく同紙を契約し直した。 そこで驚いた。おまけがすごいのだった。2ヶ月サービスの上、山のような洗剤(使わないやつ…)とゴミ袋。それに加えて、カタログ誌からの品!たぶん1ヶ月分に相当するくらいの額であろう。(そのかわり長期講読の保証)


世の中、こんなことになっているのか…と、ちょっとしたショックを受ける。「そんなにサービスしなくちゃならないくらいし烈な争奪戦なの? 」「それくらいサービスするんだったら、購読料の方を下げられないの?」 と、うれしいという前に、そんなことが頭を巡った。サービスがなくても、お宅のを読みますよ…という気持ちが宙に浮き、さみしい感じもふっとよぎる。


このようなシステムでも回っているということは、どこかで帳尻があっている(あわせている)ということだろう。TV番組の捏造問題といい、世の中の構造が、末端に負荷がかかる方向にエスカレートし、どんどん現場はしんどくなっている気がしてしかたがない。


講読者に対して「いい情報、いい企画を手渡しているという自負と誇り」。それに対して「いい記事やいい情報を届けてくれてありがとう」という受け手側の気持ち。そんな気持ちの表れとしての購読料であったはず。気持ちの行き来の形が貨幣の交換。この本来の姿を現代の経済に反映することは、不可能なことなのだろうか…。