対立軸のない困難

肘枕をしながらつらつらと考えていたら、窓の外を流れる雲が、人生のように思えてきた。

なにをつらつら考えていたのかというと、一昨日のレクチャーについてである。茂木健一郎ゼミのゲストスピーカーとして気鋭の複雑系科学者池上高志氏が「一回性の問題」について話をされたのだ。 講義は専門用語も多く、むずかしかった。が、おもしろかった。言語化は到底できないが、脳内では何度か反芻が起きている。


思ったことのひとつ:
レディメイドデュシャンは従来の美術の枠に対峙した。音楽のジョンケージもまた従来の譜面音楽に対し、偶然性の音、音のない音を提示した。どれも対立軸があった時代。 ただ現代は、「従来」を崩した彼らの次に立たされている。科学の世界も同様に、線形では記述できない分野に及んでいる。 どの分野も同種の命題を抱えているのだなぁと思った。


対立軸のない、多様な時代に、では音楽と非音楽、アートと非アートの区別はあるのか、または科学と芸術の線引きはあるのか…という問いが浮かぶ。 境界は消えていくものか、それとも重なり合うものか、それとも行き来するものなのか…。


ここで印象に残ったシーンをピックアップ。
ジョンケージが譜面にしたものには、時間の枠組みや、いくつかの音の指定はある。しかし、その譜面の再現は演者に託されるものが大であった。演者如何による振幅が大きい。その要素をなるべく作者の手に取り戻すためにどうするかをいまやろうとしている。偶発的な音楽にしても、一発パフォーマンスとは違うもの。
そのようなことを池上氏が話していると、聴衆のひとりになっていた茂木氏が「偶有性を作りこむってことか」と言語化された。さすがひらめき脳! 「な〜るほど」その言語に誘導され腑に落ちるものがあった。 ひらめき脳 (新潮新書)


で、先の雲にもどる・・・
しばしば雲の美しさに魅入る。しかしアートと言えるかどうか(それに枠組みをつくり、切り取って見せれば、その人間の作品にはなるが)。形は偶発的で一回性のものであり、そこに意志はない。


だが、自転する地球の上にあり、太陽という熱源の影響を受け、海や地面の上部にあり…とそれらの無数の環境因子によって、いまそこに雲は出現しているのだ。その無数に存在する条件を限りなく確定していくことで、一回性である「いまそこ」にある雲を記述できないだろうか。それはもしかしたら、意志というものに近いかもしれない。となれば、アートと同じアプローチ?
ーーこのごろ生命(人生)は自主的というより、他主的要素(外的環境の影響下)のほうが大きいのでは、という思いが強いーー


そこに、偶有性の作り込みというワードが重なってきたわけである。


生命そのものも、雲同様に刻々と姿を変え、継続し続けていくのである。掴みとれない「雲」という現象を掴みとるごとく、生命をも掴みとることはできないものか…。こころとか、生命といった記述不可能性を記述しようとする。池上、茂木氏から勝手にそんな思いを受け取っているのだが、はてどうなのだろう。