強要なき愛

知人からの案内で、ダライラマの講演を聞きに行った。ダライ・ラマ自伝 (文春文庫)ちょっと高額だったけれど、私への誕生日プレゼント。朝が早いので、ホテルに前泊。いつもより早めにチェックイン。持参した本をじっくり読むことができ、満足な夜。


読んだ本は医学者であり、哲学者の澤潟久敬『「自分で考える」ということ』。いまは亡き人だが、生命の自発性というようなこと、自立した個性というようなことを、一般的なことばで説いている。とても影響を受けた人である。時々確認すべく頁を開くのだ。


さて、当日は8時。会場は格調高いホテルの国際会議場。法王のお話の前に「チベットチベット」の映画。
法王の表情がよく見える席だったが、後にもスクリーン。テーマは慈悲―仏教徒からの世界平和と人権救済メッセージー


最初に法王は対話の重要を話された。形式は時に対話を妨げると、お互いに学び合う場として、質疑応答の時間を半分とられるという。すでにそこに、他者との関係性で成り立っている依存的存在である人間と、そして個々の尊厳は同等ということが盛り込まれている。「基本」が伝わってきた。


それらのことは、前夜に読んでいた澤潟氏の哲学的アプローチ「個と全体」ということと重なり、その後もとても興味深く聞くことができた。平和とは慈悲の実践である。慈悲ということばを、私は他者の立場にたって思えるこころというふうに解釈してみた。


慈悲の種は誰でもが備えているもので、その種を上手く育てるかどうかである。だが世界はいま、嫉妬、プライド、恨みに慈悲の種が覆われてしまい、作動しなくなっているだけ。だから、それに対抗して恨みや暴力行動で対処することは、さらなる恨み、暴力を生み、連鎖を断ち切ることにはならない。非暴力という志向性。


ここから、まとめのためにメモを文字にしてみたのだが、どうも陳腐なものになってしまう。全然あのときの心持ちが伝わってこない。で、文字にすることを諦めた。いたずらに整理整頓してしまわないほうがいいかもしれない。


法王は、唯一の原爆被害の国と、仏教というベースで、日本の果たせる役割は大きいと、エールを贈られた。20世紀は流血の世紀だったが、21世紀は対話の世紀とも言われた。仏教(非暴力)という宗教の特異性は、現代の混迷する世界には重要な位置にあるのではないかと改めて感じた。

もうひとつ印象的だったこと。宗教は盲信するものではなく、自分で分析し、正しければ行動していくという態度。そのアプローチは科学者の方法と似ているという。法王は脳科学など、科学者の友人も多い様子だった。
このご縁に感謝。