愛の強要

unaのスペースで、憲法のことから、いろいろ考えてみようという試み。教育基本法改正が目の前。そこで国を愛するということについて、考えあった。


北海道出身の人は、北海道人としての感覚はあるが、日本としてあまり感じはないという。本州に住む感覚と少し違いがあるように感じた。


韓国から来ている人も参加されているのだが、儒教の教えがあるので、日本より国意識は強いのではないかと言った。同時に、日本にたいしては、愛国とは違う感情があることを述べた。韓国では一律な教科書で歴史を習うが、日本に対しては侵略されたという歴史認識を共有している。そのため、日韓のスポーツ試合などは、「絶対に勝つ」という意志が強い。しかし、ほかの国に対してはそれほどではないので、愛国心というより、日本にだけに持つ感情ではないかという。それも、悩ましいことではある。


感想に「愛というものが、そもそも問題(どちらかを選ぶというのは排除、差別につながる)という考え方、いままで思いつかなかった」とあるのは、前回、中沢・太田本『憲法九条を世界遺産に』のなかにある愛の排除性について話しあったことから。


「国家と国民の関係はやくざと商店街の店主のようだと思っている。しょば代、みかじめ料を取られ、争いの巻き添えをくう。いなくなっても違うやくざが牛耳る。関係を変える方法はない。それが憲法。どういう憲法を作るか…。護憲だけを主張して済む話ではない」おもしろい発想。派閥抗争などの巻き添えというのも、頷ける。


だが、昔のやくざはそれなりの任侠心を持ち、身を犠牲にしてまでも、負の役割を背負い、捨て身の覚悟をで役目を果たしていたというではないか。いまはそれとも距離がある。

私としては、国を愛しているかいないかというようなことを、国から強制され、評価されること自体、御免こうむりたい。

愛国の作法 (朝日新書)