編集以前

いわゆる文章などの編集にはまったく縁遠かった私だが、いま「編集」ということに、多大なる関心を抱いているのは、松岡正剛氏の影響である。「日常のすべては編集されている」と言われたこと。「編集工学」論である知の編集工学 (朝日文庫)


いま、編集する自己が自己なのであり、その自己が編集する世界が世界なのだとわけのわからないことを思っている。そして、編集の軸、いかに世界を編集するかが課題となる。


そんなところにまた「編集」をキーワードにした発言を聞いた。発言の主はご存知茂木健一郎氏である。以前から脳科学分野において、編集工学的な視点を言われていたのだが、今回はかなり核心的なもの言いなのであった。


「生(なま)の体験とは、編集されていないことである」そう言った。
茂木氏は先日小説家小川洋子女史に会われたそうだ。彼女は「記憶できなかったことを、小説にしようとしている気がする」と言われたそうだ。そのようなニュアンスを保坂和志氏も言われているという。


一方で、夢とは科学の世界では記憶の整理だと考えられているが、河合隼雄氏は「夢は自分にとっての盲点だ」と言われたそうだ。茂木氏にはそれがとても印象深い言葉だったようで、ずっとその言葉を携えている。そこから、自身で認知していないこと、つまり「編集されていないこと」に注目していったのではないか、と茂木氏の志向性を想像してみた。(これも私の都合よい編集ではあるのだが)


我々の前に起こったこと、例えば昨日の24時間を再現しようとすれば、24時間かかるはず。それを通常は「昨日はこうこうで・・」と、何分かにまとめて話すことをしている。本や映画の説明を考えるとわかりやすい。実際との間に、たくさんのことがらを端折って伝えているわけである。そういうものはノイズとして処理される。我々がノイズとして捨てたもの、その集積に大事なものがあるのではないか…。常々そんなことを思っていた。


茂木氏は編集で落ちたこと、それらが小川洋子氏の言っていたことであり、夢への言及ではないだろうかと思った。彼の主張する生命に重要な「創造性」脳と創造性 「この私」というクオリアへとは意欲×体験(≒記憶の編集)だと言う。その体験とは必ずしも身体を伴うものではなくてよく、「生の体験」とでもいうもの。そのカギとなるべく「生の体験」、それはつまり「編集前のものではないか!」という考えに至ったというのだ。この論調でいうと、記憶とは、すでに一度編集、整理されているものとなる。


確かに彼の思考経過をたどることには違和がない。だが、まだ私には彼ほどの生々しさは湧いてこない(あたり前だけど)。編集されていないもの、認知前のもの、記憶未処理なもの・・・そのような蓄積がその人を作り上げている。そんな気もする。生命の躍動というようなことに近いだろうとは、なんとなく思うのだけれど、感覚的なものに過ぎない。もう少しあれこれ考えてみよう。