当事者研究は一人ではできない(3

(つづき)
べてるという名称も随分広まってきたとは言え、説明するのはなかなか難しい。川村医師はいまは「当事者研究」のべてるという位置付けをしようとしているようだ。べてるとはもともとキリスト教の「神の家」という意味なので、他にも名前が使われているということもあるだろう。

さて、その名前に行き着くまえには「精神病を語る」があった。いままで精神の病いとは医者が「あなたは○○です」とか、同伴者が「この人はこれこれで、こんなことで・・」と自分以外の人によって語られてきた病いなのだった。特に、症状を「妄想」「幻聴」という言葉でくくり、それをなくすことのみに重点が置かれてきた。医療側は「それでどんな妄想なの?」とは問わなかった。興味もなく、意味を見出していなかったからだ。「妄想」は「異常」として処理されてきた。

川村医師や向谷地ワーカーたちは、その妄想、幻聴に注目した。聞いてみれば豊かな世界。患者さんがいちばんリアルで切実なもの。それを彼等自身から聞くことをはじめた。病気を否定せず、付き合う視点でもあった。言葉をなくしていた彼等のは長い時が必要だった。しかし、そういうことをお互いにするうちに、「暮らし」が成立しはじめた。病気を仲間や医療者と共有しはじめた。

今度は、そこに「研究」という言葉を追加した。患者さんたちが食いついてきた。目の色が変わったという。自分を研究する。つまり「自分を他人事のように見る」視点ができていった。それに伴い、病気の大切さを感じるが、同時に生きていく上での普通の苦労も増していくわけだ。しかし、完治したわけではないが、彼等にはぐんと(生きる)力がついてきた。

当事者研究は実は関係の逆転にもつながっていった。一段上から医療者側が一方的に診断処方するスタイルから、医療者側が彼等の研究により、情報を得ていくという構図に。彼等から学ぶものがたくさんあるという視点。

はて、このような現象をどこかで聞いたことがある。社会学の分野で、どなたかが指摘していたことだった。従来は学者が現象を分析し、論じていたのが、宮台真司氏あたりから、研究者が街中に出て、ブルセラ・援交などといった当事者から教えてもらう、情報を得るという仕方に変化していったというものだった。まぼろしの郊外―成熟社会を生きる若者たちの行方 (朝日文庫) 同じ経緯である。

そして川村医師は声を大にして、こう言う。
「大事なことは当事者研究をみんなでやること」。自己探求とか自己分析は以前からある手法だが、一人では独りよがり、自己満足の世界になってしまい、決して改善に至らないというのだ。

あたり前と言えばあたり前のこと。だが、我々は言われるまで気づかない。コロンブスの卵である。べてるに触れると、いつの間にかこちらが問われている。