桜の国と薔薇の国

昨日、会う約束をしていた知人が体調不良でキャンセルとなった。同年代の女性だが、急に耳が聞こえなくなったという。義妹は来月手術だというし、連れ合いはドックでいくつかひっかかったという。私自身も季節が動いたとたん(?)体調不順。キャンセルで依頼されていた報告書が書けると思ったが、それもできずに過ごす。PCや活字に向うためには、それなりのエネルギーがいるらしい。


さて、『憲法九条を世界遺産に』のつづきを。憲法九条を世界遺産に (集英社新書)
タイトルは爆笑問題太田光氏がTVかなにかで、つかったフレーズらしい。なぜ世界遺産なのかというと、世界遺産の対象は「すばらしいものだが、稀有で、絶滅の危機に瀕しているので、意識的に保存行為をしないと消滅してしまうもの」。と考えるならば、憲法、特に九条は、突然変異。偶然のチャンスで生まれた奇蹟てきな存在。ならばそれこそ、世界遺産として世界的に残そうではないか。そういう発想なのだそうだ。


なるほどね。つまり意図しては、とても理想論過ぎて成立をみないもの。それが戦後のゴタゴタのなか、米側、日本側の思惑など、諸条件が重なり、思わぬ奇跡的誕生とあいなった。現実に、すぐあとの冷戦構造で米国も後悔することになるわけだから…。


さて、対談でも太田氏はがんばっているが、「幕間」の文章がよかった。中沢対談の風景から入る。当然「死」の問題に行き着く。現代ではタブー視されてしまった「死」。そして桜という花の狂気。国が作りあげた桜と死を美しく結びつけた物語…。
「日本人と桜」論に、突然薔薇の花が登場するのだ。太田妻から、体調不良状態で桜の花を見たら、より精神が不安定になり、(桜にあてられたというニュアンス)急いで薔薇の花を部屋に飾り、やっと気が落ち着いたという報告のメール。


そこからの記述が独特。つまり薔薇は棘という自分の持つ毒を外に表現している。美しいだけではなく、人を傷つける危険性を開示しているというのだ。そしてチャップリンのことばを思い出す。「薔薇は美しく咲こうと思っているわけではなく、一生懸命咲いている。その結果あの姿になっているだけ。日本の松だってそうだ」。


そのことばがずっとひっかかっていて、解釈できなかったが、ここで謎が解ける。松も、針のようにとげとげしい葉と、あのゴツゴツとした木肌で、攻撃性をさらしている。チャップリンは直感的に、自分の毒を表現しているものとして日本では松を挙げたのではなかったか・・と思い至るのだ。


そこから彼的な飛躍があり、九条に着地するのだが。つまり、薔薇のメタファーとは、普通の国として軍隊を持ち、交戦権を持つ、「毒」を現すこと。日本が薔薇の国になることである。しかし、彼は、恍惚と狂気を誘い、一方で木の下に死人を宿すと言われる危うい「桜」でありたいと思う。普通の国の人からは理解不能な「桜の国」であり続けたいと思う。その危うさを承知しながら・・・。


桜の花の狂気と恍惚。九条も同様の桜なのだ。戦前の道につながる可能性も抱えながら、それでもなお危うい桜の国でありたいと思う。ただし、賢治や田中智学の恍惚にはなかった「自分を否定する勇気」を必携して。


みごとに太田ワールドである。