愛と憎は対

太田光中沢新一憲法九条を世界遺産に』憲法九条を世界遺産に (集英社新書)を読む。

思いもよらぬ展開で、一気に読んだ。
「対談のまえに」の中沢氏によると、長くメル友であった、お笑いコンビ爆笑問題のこの頃の言動に、勇気と叱咤を受け、対談を希望したらしい。彼は一人ラッパを吹く太田君に、言葉の共同戦線をはろうと立候補をするのだ。しかし、その困難さにすぐに気がつく。それでも、お笑いのことば、きまじめなことば、理論的なことば、官能的なことば、音楽とあることば・・・それらを総動員してことばに力をよみがえらせたいと願う。


第一章は「宮沢賢治日本国憲法
宮沢賢治がここで語られるとは思わなかった。しかも平和主義ではなく、国家主義に熱心だった賢治についてを。その危うさを愛という視点から論じている。神や動植物への愛の形として擬人化がある。その擬人化行為こそ、愛情ではないかというのだ。人間同士の場合でも、勝手に自分なりの像を作り上げ、結局は自分の納得できる形として一種の擬人化をしているのだ。


愛情が深いほど、擬人化思想にのめりこむ。ところが愛情が強いほど、相手を傷つける可能性も出てくる。愛の深さゆえの殺人も起こり得る。愛がなければ憎しみもわかないわけで…。愛と憎しみは対なのだ。人間の業と言われる領域である。


このように、平和を考えていくと、愛を考えることに行き着く。一度自分の愛を疑うこと、自分の愛を恐れることをしなければいけないのではないか…。
その愛の世界で、贈与、贈りものが出現する。古代、結婚なども贈りものである。変わりにそれにふさわしいものと交換とする。家畜や家屋、人など。


当然に交換するものには同等の愛が付着していることになる。そうなると事態はややこしくなっていき、そこから戦争も起こってくる。そのゴタゴタを回避しようと、市ができ、貨幣ができたのだそうだ。貨幣というツールを作ることで、愛からの切り離しをねらった。だから資本主義(貨幣経済)には愛は介在しないのがもともとなのだった。

(つづく)