対角線を引く

養老孟司氏の講演会終了後急いで新宿都庁前。麻布と新宿では街の雰囲気が違う。講師も今度は森達也氏。テイストはだいぶ違う。


テーマは最近彼がテーマにしている「メディアリテラシー」。
はじめに映画美学校の生徒のドキュメント作品を上映。新しい教科書を作る会のメンバーである父親と自分の暮らし。感想を聞き、それぞれの観方感じ方の違いを共有する。


それから直前に起きた北朝鮮のミサイル発射の話題。情報が少ないにも関わらず、報道が過剰という指摘。
メディアリテラシー」とはメディア、報道に対する批評性とでも言えばいいのだろうか。リテラシーとはもともと識字率のことで、かつてメディアとは文字を指した。文盲率が高く、批評性もなく、為政者側の思惑通りに動く大衆の姿。その後、ラジオが登場し、さらに映画が登場するようになり、文字以外の情報手段が登場すると、ぐんと大衆に浸透し、支持されていった。しかし、誰でも情報が得られるようになった反面、情報操作が容易になったとも言える。


それをいち早く利用したのがナチス。わかりやすい音と映像からは、ファシズムが誕生する。ナチスの幹部は「危機と恫喝で、戦争は起こせる」と言っているそうだ。プロパガンダを最大限有効に使った。


わかりやすい危機意識と不安を煽り、声高の指導者がキッパリと道を示す。いったん不安を抱くと、同類としてかたまりあい、違いを異物として排除し、同じ囲いの中で安住しようとする。そうすることで不安からのがれる。(その図式は、前回に書いた養老氏の指摘である・・・)


森氏はTV界の人間の一人として、とても危機感を持っているようだ。メディアは両論併記を要求される。果たして中立はあるのかと問う。A地点とB地点の領域の真ん中。しかし、Aは誰が、Bは誰が決めるのか? またAとBという対立関係しかないのか?Cという位置は存在しないのか? 
中立というスタンスは単なる幻想ではないのか…。


養老氏もかなり飛ばしたが、彼も理論を飛躍させる人である。
彼は言う。「善意で、大量殺人はできる、しかし、悪意では大量には人は殺せない」と。つまりオウムもいい人、アメリカも平和を願ういい人なのだ。そんな極悪人ではないはず。そういう人たちが、善と悪に分け、正義を信じて、悪を駆逐するために、大量殺人を行う。


そういうことがあるかもしれない。


ドキュメンタリーは「世の中を複雑のまま現す」ものだと彼は言う。仏教も複雑さをそのままに、わからなさを喚起するものだという。最近、世界を善悪と二分せず、世界を単純化しない仏教に興味を持っているのだそうだ。とくに親鸞に。


麻布のハイソな空間での養老氏の話のあとは新宿、さらに歌舞伎町と雑然とした街での森氏の話。アカデミックな雰囲気とサブカルなどろくささ。帰りの電車のなか、ギャップの大きさにぼーっとなりながら、対角線が見えてきた。どちらもキーワードは仏教の可能性。いまの混迷する世に対するメッセージは、仏教的視座からの提案。


「そういうことだったのか…」とまるで両極のような講演につながりを見つけ、自身の腑に落としたのであった。