文明は砂漠を作る

10日に聞いた養老孟司氏の講演会のまとめ。無思想の発見 (ちくま新書)

脳と身体は首で分かれていて、機能的には別物なのだそうだ。身体とは感覚のもので、「違い」を検知するようにできている。一方脳は分析的で「同じ」を検知するようにできている。

動物は感覚を優先する生き物。危険を察知したり、食料や獲物などは「違い」の察知による。鳴声などは音程の差で判断されているらしい。人間の言葉をトーンとして察知。


一方脳。人間の特性として同じにする脳力がある。例えば大きいりんごと小さいりんごと洋梨と梨があったとする。個数は4つだが、りんごと梨と分類する。さらには、それを果物というひとつの概念にまとめてしまう。なるほどと納得。


ここから養老氏特有の論理の飛躍。時間の関係で飛ばしている様子。ひとつの概念にまとめるということから一神教につながるというのだ。そして一神教は世界の文明の基礎になった。一神教は都市宗教と言われる。そのころの都市とは城壁で囲われ、地面を石畳にした。都市とは土をなくすことであった。


そこで彼は、突然「仏教だけはまったく逆の成り立ちなんですよ」と言った。ブッダは城壁の中の都市に育ったが、その囲いの門から外に出た。そこから、生老病死を目にし、四苦八苦しながらの修行がはじまり、菩提樹の木の下で、悟りをひらいたのである。つまり、出家とは都会から野に出ること。身体の感覚に戻ることなのだそうだ。ほほう、と思う。


そこで、物事を考えるとは、それぞれの人が、自分を納得させるためのものと言われる。宗教も生も死も、捉え方に正解があるわけではない。自分で「そうか、こういうことなのか」と腑に落とすことで、前に進める。だから違っていてもいいのだ。しかし、科学とか数学などは、個々ではなく、すべての人が納得できるもの。


話はジグザグしながら、からだの自然(感覚)を取り戻す必要を、彼は提案していた。つまり、外(野)に出ることが、感覚の世界に戻るということ。“同じ”ではなく、“違い”を察知する力。違いとは具体的で感覚的なものなのだと。都市文明、囲いのなか、つまりは脳が優先する世界では、“同じ”を共有するためにルール(秩序)ができていく。


しかし、ルールとはある一面からの秩序であり、秩序を作るために、無秩序を作るということでもある。例えば、机の上を掃除するとする。そのゴミはごみ箱、掃除機などに捨てられる。机の上は秩序ができるが、他のところには、無秩序ができる。秩序と無秩序は対になっているだけなのだ。


そしてそのような文明が発達した先には砂漠化がまっている。四大文明の発祥地はエジプト、メソポタミア、中国、インド。みな砂漠になってしまった。それはエネルギーとして木々を多量に消費してしまったからだと養老氏。城壁や道路は木々を切り、膨大な量のレンガを焼いて作ったもの。


そう言われてみれば石文化と言え、レンガ・タイル類は膨大な燃料がいったはず。石炭や石油はまだ発掘されていない時代。それから、水の重要と、水をめぐって世界は動いている実情などの話。どれも興味深い話だが省略。


彼の話を総合してみると、“同じ”を察知する脳主導の生活より、外に向かい、違いを察知していく、からだ全体の生活をしていかないと、地球はやばいよということだと理解した。(つづく)