評伝というもの

切り抜いた新聞記事がたまっている。えー、ずいぶん前の記事だ。長部日出雄氏のインタビューが載っている。天才監督 木下惠介評伝文学の一人者。評価の高い人物だが、評伝をあまり読まないので彼についても全く無知。で、なぜ切り取っておいたのかというと、彼の向かう姿勢が面白かったからだと思う(なにせ二週間前…)

主人公に対する温かなまなざしを感じる仕事の源泉はどこにあるのか、という問いに対して、彼が言っている。

出発点は、主人公が好き、ということ。ものを書くならば、それに関してはほかの誰よりもよく知っていなきゃいかん、と。ただね、そういう自分をちゃんと客観視できる視野がないとだめだと思います。批評の芯は自己批判なんですよ。なぜこの人を好きなのか、自分は本当にこの人をわかっているだろうかという疑問がないと、単なるファンで終わっちゃう。

この視点が案外批評家にない。それがないと、説得力に欠けると彼は言っている。70歳を越える直木賞作家だが、作家としての才能に限界を感じ、「人の才能を見抜くこと」「資料集め、確認、咀嚼、表現」という才能を自らのなかに見出し「評伝小説」の道に進む。

評伝小説は地味だ。小説の二次的仕事とも言われているらしい。しかし、彼は一過性の情報が氾濫する現代において評伝は「文化の厚みとしてのストック」と位置付けている。次の評伝の主人公は「カント」。彼の部屋にはカントが生涯を過ごした街の古地図が飾られているそうだ。カント、ずいぶん遠い人だが、評伝というものに興味が湧いてきた。