つきあうのは病いではなく人

先月末、unaでべてる*1のビデオ「ベリーオーディナリーピープル」を観た。当事者の早坂潔さんが中心で語っているもの。長いので、観るチャンスを逸していた。冗長なところはあるが、なかなかよかった。発表用だったのか、いつもより音楽とか編集が変わっていた。

<「普通」になるために身なりを整えるのではなく、商売のために身なりを整える>というソーシャルワーカー向谷地さんのアドバイスがある。
これはだらしがなくなってしまう身なりを「病気を治すため」という理由にせず、「そのほうが売れるよ」と、自分の問題とは違う角度から提案する。そうすると、そのコトが病気から離れる。つまりは行動、動作ができればいいわけだから…。その視点は他にも言えること。とても参考になる。

参加者からこんな感想があった。

キヨシどんは自分の素直な意見を自分の言葉で言おうと努力していて、私も見習わなくてはと思った。どうしても既存の言葉で済ませてしまうというか、記号のような言葉を使ってしまう(ムカツクとか…)特に“胸からピコピコタイマーがピューンと飛び出た”なんて言葉、すごくおもしろかった。

私は今回なぜか感想のタイトルが先に浮かんできてしまった。「病いは変わらなくても…言葉に表すことでつながれる」というもの。キヨシどんをずっと追っているなかで、状態が悪くなる。カメラはその経過を映す。からだが平静に保てなくて「ワォーッ」と叫びだしてしまうところもある。いままでのビデオではいつも病いが改善したあと、「あのときは…」と振り返って、笑いあっているという場面しかないのだが、この回はリアルタイムで浮き沈みが映し出される。

ソーシャルワーカーの向谷地さんが「10年、病いは変わっていないけれど、彼とつきあうことで、周りが変化してきている。彼自身も病いとのつきあい方が変わってきている」と言っているけれど、彼に限らず、メンバー一人ひとりに変化の物語がある。

「病人としてつきあうのではなく、病気を持った“人”と長くつきあっていく」。このことは私の周りでも同じことが言えること。そういう性質を持った人としてつき合っていく。そのなかでお互いが変化していく、そこの豊かさ。いつも精神障害者の真の自立を模索したビデオであっても、自分たちの日常に問いかけが還ってくる。それがこれを観続けている面白さだ。

*1:北海道にある精神障害者を中心に地域、医療者が真の自立を模索しているコミュニティ