現代と過去を行き来する神話

四方田犬彦氏のwebマガジンを愛読している。そこにジャン・マリ・ギュスターヴ・ルクレジオの講演報告があった。

パナマインディオには、かつてこの地を大洪水が襲ったという伝承がある。彼らは、もう二度と世界に洪水が訪れませんようにという願いを、歌のなかに記している。彼らの願いが神に聞き届けられるかはわからない。

今日の社会で書き続けている作家は、次々と押し寄せてくる世界の暴力や脅威に対して、あるときは力を発揮することができるかもしれないが、多くの場合は無力である。その無力さにおいて、インディオと作家は同じ位置にいる。前者にとっての歌が、後者にとっても言葉なのだ。

けれども歌と言葉が伝えられていくことは感動的なことではないだろうか。自分はもはや近代的な意味での小説を書くことを、長らくやめてきた。先住民の神話を、彼らの代わりに書き記すことで充分ではないだろうか。」ルクレジオはシンポジウムの席で、だいたいこのようなことを話した。

たくさんの小説や文章が溢れている現代だが、本当に欲しているものは、限られたものかもしれない。その本質は現代でも古代でも同じものではないか、人間にとっての。

で、ふと先日も書いたいしいしんじ氏の話を思い出した。彼が退職理由にしたという言葉である。「今300年前のアイルランドのものを読んでもわかるように、300年前のアイルランドの人が読んでも『おお、こういうことか』とわかるようなものを書きたい」と。そして、「自分の本が5冊ある世界より、10冊ある世界のほうがいいと思うとも言われていた。(この表現って、すごいよね)

そうか・・・彼は現代の神話を書こうとしているのか、といまさらながら思った。