ぼんやりと立ち上がったもの

いしいしんじさんの話のつづき。と書いてみたものの、むずかしい。メモの文字と記憶をたどるが、つながりが曖昧。とりあえず書き出してみよう。

彼はいま三浦半島から松本に居を移している。作品はその環境から生まれるのかとよく言われるが、作品の方が先にできている。転居は理由などなく、からだが先に反応してしまい「自分は何を求めているんだろう?」状態であると。湖に氷のはるような松本に住んでいるのだが、氷やスケートの物語は先にできている。海や海岸が出てくる物語も、当時はまだ海岸には住んで居なかった。その後、海岸に住むようになったのだそうだ。

そんなことと、彼の書くスタイルが重なっているようで面白かった。前回も触れたが、彼は机を前に、「何もせず、じっと物語としての盛り上がりを待つ」。そして書き出すわけだが、からだに委ねるというか、からだ感覚を信頼する書き方に通じる話を、彼は背筋でたとえていた。背筋はどんな姿勢、動作でも使われている背骨を支えているわけだが、それは意識せずに日々の動作で鍛えられている。また茶道には“テナリ”という言葉があるそうだ。無意識に動く手の所作が理に適っているというもの。しかし、自然なその振るまいは、何千回となく繰り返された所作から生まれるものである。そのように、作品としても、書く中で意識せずに鍛えられているものがあるのではないか。

彼はそのスタイルを他の言い方でもしている。物語を内容ではなく、“かたまり”として、または“流れ”として捉えている。ここで折れ線グラフのような身振り手振りを加えながら、ワワワァといって、ワァーとなって、ググググとなってスーッと・・・というような表現をして語ってくれたのだが、和楽の譜面に似ている感じがした。

そんなふうだから、自分でも把握しないまま書いているそうだ。ただかたまりが遠くまでつながっていくような感触は持っている。例えば最新刊の『ポーの話』はそのようにしてできたので、自分でもわからないものだらけ、すっきりしないで終わってしまった。結果としてできてしまったという感覚なのだそうだ。しかし、自分で把握しようとすると、物語は広がらない。そうするほうが、物語の自由度は増す。これも保坂和志氏の言っていることと似ている。それから物語に出てくるネーミングや登場する小物のエピソードなど。

流れが曖昧なのだが、いしい氏の感動についてのコメントもあった。感動について、説明はいらない。ただかたまりが入ってきて、かき回される感じ。(感覚としてわかる感じ)また彼は、以前からわからないものを買うのが好きだったそうだ。わからないものをわからないまま味わう。わかる方に行ってしまうと、味気ない。行きたいところに行けなくても、行こうとしている、それでも時々近くに行けて、カスル、その感じがいい。(この感覚もよくわかる)

明確な言葉で言い切る説明はしないが、“あたり”を言うことで、対象に迫る。私が好きな表現の仕方だが、そんな感じで、いしい氏の何らかが浮かんできた気がする。


・・・と、そんな話。