いいな、いしいしんじさん

1月にお聞きしたいしいしんじ氏の話。そのなかに最新の『ポーの話』ポーの話がよく出てきたので、友人から貸りた。『麦踏みクーツェ』を読んで、「あんな物語の展開を書く人って、どんな人だろう」と深く興味を抱いていた。まず「普通の生活者である」ということを強く感じた。その基本の上にたって、あのようなものが語れるのだと。それは保坂和志氏に感じた印象と重なる。この感覚は重要な気づきだ。

さて、記憶をたどって、整理をしてみよう。彼のご指名で対談相手は写真家の川内倫子さん。彼は彼女の作品を「当初は対象との間の光を感じたが、このごろは対象の向こう側の光を感じる」と評していた。それに対して川内さんが「目に見えないものを目に見えるもので撮る」と言われ、それはいしい氏の作品にも共通するものという。

いしい氏はこんなことを言う。
「対象を扱うのだけれど、その対象じゃなくていい。言葉を扱うのも同じで、言葉にならない言葉を書いているのだけれど、実際書いていることはは、言葉ではない。それで“あ、これだ”と思うものを言語化していく」。このことは保坂氏が「構築して書くのではない。ただ書いていって、“あ、これは違う”と思うと消して、書き直す」と小説の自由ということで話されたことに似ている。

保坂氏は「きちんと小説の構想を練って構築して書いているわけではない」と言われていたが、いしい氏もそうではないようだ。『ポーの話』の場合、7ヶ月何もせず、毎日ただ机の前に座っていたという。一切文字を書かず、“もり上がり”を待つ。そしたら突然「うなぎ女」というものが出てきた。キーワードが浮かぶと一度に物語りはできる。そういう感覚が面白かった。

なにか暗いかたまりとしてあり、それが熟成を待ち、あるとき一気に形になっていく。ちょうどフィルムを撮りためておき、ある時現像すると、一気に作品として見えてくる、そんな感じだと言う。かたまりという言葉をよく使われた。

そんないしい氏だが、硬い時代というものがあったという。こう読まなきゃダメというような…。それはとっても納得ができることだ。きっとそれを通過して、その対比からいまのスタイルに至ったのだろう。

彼らの話は気の通じ合った人たちが居間で歓談している感じで、興味深い話が次々に展開していった。筋道や結論のある話ではないので、次回、印象深いことがらをピックアップ。(つづく)