小説の自由

師走とは師も走る忙しさだというのだが、時間自体が走っているのではないかと思うくらい。すでに月の半ばを越している。つまり年越しまで10日余り・・・

イベントも多く、脳内整理がおぼつかない。
まず、雑誌『風の旅人』に執筆されている小説家保坂和志氏のお話。いつも示唆深いことが書かれていて、気になっている方だった。

彼の小説に関する見解がおもしろい。いい物語を書くのが小説ではないと言っている。彼の小説観とは最初から起承転結を構想したものではないということ。それを現すエピソード。最初の作品を書き上げて出版社に届けると、編集者から「少し長いですね」と電話で言われた。そこで彼は「では適当なところで切ってください」と言ったというのだ。言葉一つ、内容一つにこだわるというのが作家のイメージだったので、ビックリだ。彼は結果ではなく、そこに向かうプロセスを表現しようとしているのだろうか。

お話の展開も、彼自身がいま言われていることと同じ経過を辿っているようだった。一応「小説の自由」というタイトルであったものの「小説の自由とは」に対して言葉では答えていない。そこの近くまでは行くのだが、スーと行き過ぎてしまう・・・
最初の出だしは有名サッカー選手の自由自在な球の扱い、また絶対音階を持つ人たちの音の扱い。それは自由に操っているようで、実際は理に適った蹴り方、音程に沿っているわけ。つまり、日本人は日本語をメチャクチャにはしゃべれない。それは日本語を話せる、文法に沿った言葉を話せる結果なのだ。日本語から自由であるとは言えないという。全く日本語の枠組みを知らない人は(例えとしてタレントボビーの名)、彼は日本人では絶対話せない言葉使いをする。そういうことが日本語から自由であるということだと…。

それから、話題はいろいろな分野に分け入っては、戻り、また分け入る・・・そんな話ぶり。ジミヘンとかザ・フーなどロックシーンの話にはじまり哲学までを多岐に渡り話されて、私には興味深いものだった。その上、話の本質を掴む聞き方まで。

保坂氏によると、扱う対象の能力を最大限に引き出せる、それが自由ということだそうだ。また小説は名詞ではなく動詞で作られているもの。つまり転回(展開?)なのだと。そのテンカイを作者ではなく小説自身が決めるようなこと、そういう小説こそが自由と言える。ある意味作者としては不自由なのであり、それを引き受け、小説の流れに委ねたところで、小説の自由は成り立つ。

保坂氏は小説を組み立てて書いていくわけではないそうだ。いきなり手書きで書いて「違うな」と思うと消して、戻って書き直す。先を考えているわけでもない。読み直したり後に朱を入れたりもしない。冒頭のサッカー選手や音楽家について言われたことと、保坂氏の捉える小説観をお聞きしていると、彼の「違うな」ということこそが、小説家保坂氏の言う“小説の自由”なのではないかと思えてきた。