歌に感じる

月一で読んできた『論語』。印象的なところだけのまとめをしてきたのだが、「休んじゃったから、ノートみせて」みたいなことになって、ちょっとプレッシャー。とたんに、まとめがのびのびになってしまった(なんと情けない)。次が控えている。遠くなった記憶を辿って・・・ともかく筆を握る。

今回は第17・18の章。
第17の2・3(ひとつの歌になっているものと二種類ある)
【子曰く、性は相近し、習へば相遠し。子曰く、唯上知(じょうち)と下愚(かぐ)とは移らず。】

孟子孔子の人間観の基本的なところは性善説で、そこに依っている。「習ふ」とは習慣・習性とか(白紙状態に)染みてくるものと解釈。移る≒変わる、に近い意味。

通常されている「善いことを教えれば善い人になり・・・」のように解釈するのは感心しないとC講師は言われる。上知(上智=sophea)、下愚は、一人の人間の中でのことで、本来人に格差があるということを言っているのではないという。(少し安心)
またここで言えば、君子とは「上智」を語ぐべき人間であるということであるそうだ。

参考には第15の39番目【子曰く、教へありて類なし
以前読んだ第6の21番目の詩もあわせて読む。上には上の、下には下の教えを伝えないと届かないというような内容だった。(聖書にある“豚に真珠”と喩えが似ていると言われる)

第17の25番目
子曰く、唯女子と小人とは養ひ難しとなす。之を近づくば則(すなわ)ち不遜に、之を遠ざくれば則ち怨む

「女子と小人は・・」はよく耳にする言葉である。「養ふ」とは付き合うの意。「とかく女、子どもは付き合いにくい。近しく手をかければ無礼でわがままな振るまいになるし、つれなくしてほっておけば怨み言を言われる・・」。(男性にも言えます!)というわけで、これは女、子どもに限らず、人との付き合い方、距離を言っているとC講師。大いに納得する。
ここで、参考として曉月の歌を紹介してくださる。

<遠くなる近く鳴海の浜千鳥 鳴く声に汐の満ち干をぞ知る>
なるみと鳴海の海をかけている。鳴海の海岸に鳴く浜千鳥の声が遠くに聞こえたり、近くに聞こえたりすることで、汐の満ち干がわかるのだなぁ・・・という歌である。ここでも海岸線の距離を千鳥で知るという、人との距離間がメタファとしてある。または千鳥と海岸線との関係性も考えられる。絵としてもいい。いろいろ想起させる歌である。(しみじみ)

第17の21番目
子路曰く、「君子は勇を尚(とうと)ぶか。」子曰く「君子は義を持って上と為す。君子勇ありて義なければ乱を為す。小人勇ありて義なければ乱を為す。小人勇ありて義なければ盗を為す。」

勇=度胸・自分の中の潔さ。
義=何のためにするか、正義とか、深い志。
盗=自分のものとする。
君子も小人(志の低い人)も義がなく勇だけであれば、乱を犯し、欲望をほしいままにしてしまう。勇だけでは危ういということを孔子は諭している。

続いて第17の22。
子貢曰く、「君子も亦悪(にく)むことあるか。」子曰く、「悪むことあり。人の悪を称する者を悪む。」曰く、・・・略】

悪(にく)む=ダメだなぁ・いけないなぁー程度の意味。
孔子は人のこころの公道だから君子でも悪むことがあると言う。1、人の悪事を称えあげるもの。2、敬う心のないもの。3、勇があっても礼のないもの。つまり悠悠自適を失った人を言っている。
そこで弟子に問う(続いているという解釈もある)「子貢もあるのか」と。子貢は「あります。他人の意見を自分のもののように言う者。不遜な事をしておきながら、自らを勇者としている者。他人を暴いて正直者だと思っている者。」と答えた。
つまり大いなる勘違い者ですなぁ。「いるいる、そういう人」とニンマリとする。

そして第17の6番です。
子張仁を孔子に問ふ。孔子曰く、略・・「恭・寛・信・敏・恵。恭なれば則ち侮らず。寛なれば即ち衆を得。信なれば則ち人任ず。敏なれば則ち功あり。恵なれば則ち以って人を使うに足る。」

仁とは・・
恭=おごらない
寛=広いこころ
信=言行一致
敏=すぐ実行
恵=分け与える
ということなのです。その通りと思うのですが、信、つまり実践していくことは、困難なことなのであります。

最後に第17の9・10番。
子曰く、小子何ぞ夫(か)の詩を学ぶ莫(な)き、詩は以って興すべく、以って観るべく、以って群すべく、以って怨むべし。・・・略

孔子先生は弟子たちに「なぜ詩をもっと学ばないのか。詩はとても学びの多いものなのに・・」と言っている。・・・というわけで、一年間という期限つきで『論語』を読んできたのだが、C講師は「来年は歌を読みましょう」と提案された。俳句か短歌か・・芭蕉西行か・・楽しみなことである。