確かなエンジン

ー担当編集者池田雅延氏の小林秀雄観の続きー
小林秀雄は文芸評論家。しかし、今の評論・批評とは違っているという。現代の批評は辻斬りの如くバサリと切り捨てるもの。近代批評の創始者としての小林は、批評を芸術にしたと氏は語る。論文という抽象表現を使い、作家の肖像画を描いたのが、小林評論であると。

さて、池田氏が関わりだした単行本は本居宣長。12年弱続いた連載を1976年12月に突然終了した。彼は池田氏に「あと一章は単行本にて書き下ろしで書き加える」と言った。いよいよ池田氏小林秀雄の仕事が開始されたのだ。1500枚あった原稿用紙。最初から10ポイント(通常は9ポ)の一段組みと決められた。

それを小林は1500枚を1000枚まで大胆削除。苦悩の後がうかがわれる原稿だったと言う。それを編集者が朱を入れ、再構成するのは並大抵な作業ではない。池田氏は若輩の自分にはおこがましいと、添削を遠慮したいと申し出た。その時小林氏は「(一般)読者に読んでもらわなければ、書いた意味がない。編集者の朱入れは多方面からの指摘。遠慮しなくていい」と言われた。そこで池田氏は、例えば富士山を見えなくさせている枝をはらったり、肩車をして、見えるようにしたり…というような朱入れの仕方をした。

その中のエピソードとして、冒頭に持ってきた「遺言」の章で、桜の挿絵を入れようと言われたことについて。10月発売の9月に、である。すでに箱や外デザイン、文字も決まっていた。昔のこと、600ページの版下(活字を職人が組む)を変更するのは大変なこと。だが、職人達はそれを誇りとするところがあり、すんなり。

だがその前に、桜の木の絵を用意すると、「違う。満開の花びらが描かれていた。これではない」と小林は言った。あわてて記念館に問い合わせるなどして、結果的には2種類あり、本物は花びらの点描写した方だとわかる。彼は苦渋し「明日来てくれ」と言い残し退席する。翌日「あれは見ごろの桜だ。満開なんだよ!」と勢いよく言われた。彼は一晩中宣長の気持ちになって考えていたそうだ。そして、先の結論を得た。その言葉の迫力はすさまじいものがあったと池田氏は言う。小林秀雄という人の“命がけ”をうかがえるシーンである。

幸い単行本『本居宣長』は好評だった。出版後のある日、小林秀雄が脈絡なくこんな話をした。「ヨットのエンジンって知っているか?」。「ヨットにエンジンあるんですか?」と池田氏。「今のエンジンはスピードを競うものばかりだが、世界には一軒だけスピードが出ないエンジンを作り続けているメーカーがあり、どのヨットも必ずそれを乗せている。それは絶対にスピードが上がらないが、絶対に故障しない。必ず、港に帰り着けるんだ」と言われたという。

池田氏小林秀雄のこころを感じ取った。(つづく予定)