忠恕の学び

月一で論語を読んでいるのだが、テキストによって、区切りとか解釈が違う。解釈を読み比べ、講師のCさんの解釈を聞くことがおもしろい。孔子は遠い古の人物であり、弟子であろうと、彼の本意を汲んでいたかは保証できないわけで、まして、語り継がれて現代に至った解釈は、どれほどのものであろう。解釈もその時代時代を反映するものになるのは、避けられないことであるし。そう思うと、気が楽になる。故に、学者ではない私が「論語を読む」ということは、論語から自分はどんな学びをもたらせるかに尽きる。

今回は第15・第16。
孔子曰はく、君子に三戒あり。・・・】の段。
少年・(10〜30歳)壮年(30〜50歳)・老年(50歳からほぼ70歳を想定)、それぞれの年齢での戒めが書かれている段である。
例えば【少之時、血気未定、戒之在色。】
「少年期はまだ血気が定まらないので、女色を戒めて情欲に陥らないようにする」という解釈をされているが、東洋医療も修めているCさんは<血・気・水(体液)>は漢方で大事な考えと説明。少年期はそのバランスが未熟なので、色におぼれないようにするということだが、少年期は本来は<色>の時期。それに熱中することは必要で、抑圧するということではないと言われる。同様に壮年期は血気も充実して強健になり、仕事や理論などが成就したり達成したりする時期で、衝突や論争もある。大いに論争、衝突もするがいい、けれど行きすぎないようにと。老年期は血気は衰え、欲望は物質に向かう。今までの財産や名誉に寄る時期。しかし、それを貪り、度を過ぎてはいけない。

そう解釈されると、とても楽になり、共鳴できる。そうか、老年期は肉体に頼れずに、物欲や権威に頼るのか…。そういう傾向は自然なことだったのだ。で、行き過ぎを警戒すればいいわけでだね…というように。

第15の2番目
【子曰く、「賜や、女は予を以て多く学んで之を識す者となすか。」対へて曰く、「然り。非か。」曰く、「非なり。予は一を以て之を貫く」。】
参考に、第4の15番目の【参、吾が道は一以て之を貫く。・・・曽子曰く、「夫子の道は忠恕のみ。」】を参照する。
ここで、孔子先生が学ぶ姿勢について「私は一つの道理を貫いているだけだ。いちいち知識を記憶しているのではない」と言われている。では貫いている道理とは何か?と言うと、「忠恕」であると言うのだ。現代では「恕」という文字をあまり目にすることはなくなったが、「忠」は自分に対して、「恕」は他人に対して、思いやる心なのだそうだ。

つまり、学ぶこととは、自分に対してであるが、ひいてはそれが自分を超え、他人に対してにならなくては学びではない、ということなのだ。なるほど。自分で学びながら、本来は人にも及ぶものが学び。また一人の学びではあっても、一人では学べないともCさんは言われる。しかし、昨今はアカデミックな場やビジネスの場でも自分だけの利(欲望)だけのために学ぶ人が目立つ気がする。

それから第15の37番目を最後に取り上げよう。
【子曰く、君子は貞にして諒ならず】
「諒」とはせせこましい意識
「貞」とは構造的な正しさ、普遍的な正しさ。
解釈は複数あるそうだが、これは君子のまとまった姿を現している。
そこで急に「貞」のつく名前は今は見られないが、そういう親の思いが込められていたのかと、思う。貞子は立派な名前だったのです。