へびの音は魔もの

講座茂木健一郎「脳と音楽」の最終回のゲストは三枝成彰氏だった。知りたいことがなんでもわかる音楽の本―クラシック、ジャズ、ロックから日本の伝統音楽まで (知的生きかた文庫)彼は芸大で学び、現代音楽から入ったが、あるきっかけで、現代音楽を離れ、30歳から45歳まで15年ほどを、悩み続ける。ちょうどその頃に、TVに出たり、映画音楽を書いたりして、メディアに登場していたのだ。

あるきっかけとは一つは、ポーランドに行ったとき「東洋人が西洋音楽などわかるはずがない」と言われたこと。二つ目は石岡映子さんから「貴方たちのやっている現代音楽は自己満足に過ぎない。だって観客は親類と友達だけじゃない」と言われたこと。当時の彼はその言葉にグサリときてしまった。確かに我々が西洋人が能や歌舞伎をやっていたとしても、本当のところはわからないだろう、日本人にかなうはずがないと思うのと同じことだ、と。現在は、文化は愛されるものであり、音楽で美しいハーモニーを追求していきたいと思っていると言われる。生涯にオペラを10作品書く予定だそうで、あと8作品!と熱弁される。

彼の西洋の音楽と東洋の音楽の話はとてもおもしろかった(業界では常識なのだろうけれど)。
音楽は科学だと言えるのは、見えない音を分け、楽譜という見える形にしていること。それは西洋人にしか気づけないことだったと言う。そこでピアノで和音を弾いてくださり、半音の和音がこころを揺らす、曖昧で不安定な音で、倍音は安定したすわりのいい感じを与えることを感じあう。

もともと西洋音楽キリスト教の下で生まれたもので、基本はメッセージ。キリスト教は禁断の宗教で、快楽を禁じているので、音楽は快楽ではないのだ。三枝氏は半音はへびの音と言う。アダムとイブに禁断(快楽)のりんごを食べさせたへびのことである。こころを誘惑し堕落させたへびは半音。だから好まない。聖歌には半音はないそうだ。このことから曖昧な中間音や、雑音を排除する音楽観から、文化が生まれていく流れが想像できる。

とは言え、音を段階に分け、譜面に記述することで、誰でも、どこでも、何回でも演奏を聴くことができるようになった。今ではモーツァルトは聞きやすい音楽になっているが、当時は難解と言われていた。サリエリの方が支持されていたのはわかりやすかったからだそうだ。しかし、何度も演奏されることで、シンフォ二ーのような抽象度の高いものも、理解されるようになり、今に残っている。

だが、モーツァルトは西洋ではベートーベンより格(?)が低い。圧倒的に禁欲的で、カント的で、メッセージのあるベートーべンが支持され、快楽的な音楽のモーツァルトは彼に及ばない。それからオペラとシンフォニーではシンフォニーの方が格が高い。つまり具体的な言葉より、音だけの抽象度の高いシンフォニーの方が格調が高いのだそうだ。(“月光”とか、“雨だれ”とか通俗的な名前を付けるのは、邪道なのだそうだ)それから次第に大衆音楽が発達するのだけれど、やはり今でも階級というものが存在しているのだそうだ。

一方快楽を肯定する世界観の東洋は逆。打楽器などで身体を震わせ、リズムにあわせ踊る。楽譜などなく、伝承されなければ、消えていく。クラシック音楽会などで、むやみにからだを動かしてはいけないのは、快楽禁止の残りなのだそうだ。だからクラシックでは音楽に乗ってはいけない、陶酔してはマズイのである。クラシックは堅苦しいというのが、正解だったのだ。(余談だが、そう考えるとビートルズの出現というのは、日本で考えられないほどの革新だったのだと改めて思う)

で、三枝氏の発言で、一番興味深かったのは、「音楽絵画体育といった教科は、今の義務教育では必要ない」と言われたことである。もともとが、国家の富国強兵政策のもとに作られた科目であるからである。つまり、体育は歩兵として体力をつけるため、音楽は行進ができるため、絵画は戦略図が描けるためであった。「それに情操教育というが、今のような教育制度では情操教育なんてできない。情操教育は生活の場でするもので十分」と言われた。で、実はその先が聞きたかったのだが、打ち上げで隣に座ったにも関わらず、より刺激的な話に熱中し、聞きそびれてしまいました。