透けた裸形

ネクタリンの翌日、今度は弟から封書が届く。頼んでおいたブルースのMDと雑誌記事。MDは三枚もあって、曲目一覧は先にメールで送ってくれていた。雑誌記事も全連載をきれいにコピーしてくれていて、丁寧な仕事に感動する。忙しいのに、手間隙かけてくれたこともうれしかった。

読みたかったのは辺見庸の文章である。彼は1年半前に講演先で脳梗塞で倒れた。必死のリハビリで、復帰したとどこかで読み、弟がその雑誌を持っているというので、依頼したのだ。

辺見氏の文章、よかった。タイトルは「いま、『永遠の不服従』とは何か」。『永遠の不服従』が講談社の文庫になったことからインタビューの機会を持たれたようである。永遠の不服従のために (講談社文庫)新刊の時に『永遠不服従』を読んだのだが、ズシンと腹にきた。彼の言葉には強度がある。こちらの身体までボディブローを浴びる。近寄りがたい程の毅然とした姿勢に逞しさも感じていた。

その彼が倒れたという記事。ショックだったが、一命をとり止めたことに安堵した。療養の間、世界ではいろいろな事態の変化が起き、彼のことが度々脳裏に浮かんだ。彼はどんな気持ちでいるのだろう…。彼ならどんな態度をとるだろう。その彼の発言を、ぜひ読みたかった。

相変わらず、彼の選択する言葉は絶妙であった。批判する言葉であっても、鋭さのなかに豊かさがある。えげつない言葉での批判は、気持ちのはけ口になるだけで、相手のこころを揺らすまでの力にはならない気がする。解消にはなるが、創発にはならない。

で、今回の文章で感じたのは、「彼自身」が関わっていることだった。彼は脳出血で倒れ、半身が動かなくなった。身体は不自由だが、その間、内部では意識や記憶、想念が活発に動いていた。彼は「意識とは時間を語ることであり、時間とは物質の運動の総量だ」と言われていることを実感していたのだ。

記憶が飛び、意識にもやがかかった。時間と場所の感覚の変調。
彼は必要な情報を失念した。一方で、鮮明に消えない記憶がある。米軍が空爆したアフガニスタンのクレーターの深さ。1940年代の傑作とも言えないオーソン・ウェルズの映画の台詞の細部、映像の光と影のゆらぎまで…。

辺見氏は脳の不思議を思った。記憶と想念における無用と有用とは・・。このようにして、辺見氏自身を、特に脳内の現象を観察し、感じ、推察し、書き留めている。「存在は裸形をおそれて幻影をまとうのだ」という哲学者市川浩〈身〉の構造 身体論を超えて (講談社学術文庫)の言葉の意味が、病前より多少わかる気がすると言われるように、辺見氏の裸形(存在そのもの)の影がチラチラする。それが、従来の辺見庸の魅力に加算されている。

自由ではない身体であっても「この先も、なにがしかのことどもを書く」と言われている辺見氏の次作が待ち遠しい。