研究という視点

暑い。防災の日。猛暑のなか防災訓練で子どもを迎えに行ったことを思い出す。防災ズキンをかぶって校庭に並んでいた。よく熱中症にならなかったものだと思う。まだ熱中症という名前が一般的でなかったせいだろう。

今日は、目黒区にある心身障害者センターの一室でべてる(http://www.tokeidai.co.jp/beterunoie/)の当事者研究のビデオを観ることになっている。(べてるの家の「当事者研究」 (シリーズ ケアをひらく)同タイトルの本も出ている)
都立大駅に降りるのは何十年ぶりだろう? 八雲とか柿の木坂という地名がなんだか懐かしく感じる。まだ東京を知らないときに、なぜか柿の木坂という地名にあこがれたことがある。古くからありそうなそば屋で、腹ごしらえをして、程なくセンターに着く。きれいで、大きいのにビックリ。

知人のAさんが勤務地での鑑賞を提案してくれて、一室を借りてくれたのだ。ナースの同僚と私の友人の針灸師を誘い、一気にビデオ4本観た。短いので、それでも2時間強。べてるのメンバーがどう病いと向き合っているか、その実験はどれもおもしろかった。当事者自身の言葉で語られる試行錯誤には、暗闇でメモッた言葉を拾ってみる。

「さりげなさ」「信じることのさきどり」「問題解決ではなく、自己研究」「自己診断ではなく、当事者研究なのだ」「分かち合えるというサイン」「一人じゃない」「積み残してきた苦労」「苦労を新しくする」

彼らは「自己研究」と称して、自分の症例を検証している。その態度は診断ではなく、あくまで研究である。それは問題、症状をなくそうという方向ではない。その研究を発表することで、過程を共有し、みんなの研究となっていく。そのことが関係に信頼性を生んでいく。そして病気の為に回避してきた問題や背負えなかった問題を徐々に体験していく。人間関係にしても、苦労が増していくわけだが、それを、彼らは苦労の種類を変えていくと考える。

彼らの取り組みをみて驚くことは、まったくまっとうなアプローチであるということ。彼らのそういった試行錯誤からは、場や人への信頼が育まれていることを感じる。そのようなアプローチを、健常者である私たちはいましているのか…。と問うたとき、それが健常者の世界にはないことに気づく。