和して同ぜず

昨日の『論語』を読む会は憲問第14からはじめられた。
【子曰はく、君子は上達し、小人は下達す。】
現代では「下達」はあまりなじみがなくなっている。上意下達くらいだろうか。しかしその下達の意味も変わってきているという。上達も本来の意味ではなくなっているらしい。さて、その上達とは何ぞや?

上と下の漢字の成り立ちとして、X軸とY軸を想定してみる。プラス地点に記しをつけたものが上、マイナスは下。下は末。ゼロ地点が目線となる。で、講師Cさんは上は元,本来という意味だと言われる。そこから「本」と「末」の成り立ちに話は移行する。

少し混乱するかもしれないが、「木」という字をもとに、同じく座標軸を想定してみる。X軸は上部に位置することになる。本は根本ということで、根を意味し、Y軸のマイナス部、根の一部に記しがついたもの。一方「末」。X軸は長い方であり(未にもつながる)、プラス部にもう一本横棒を加え「末」とする。従って、本の本来は地下部分にあり、つまり「見えないもの」を指す。末は枝葉、末梢部分を指し、「見えるもの」なのだと言われた。

そこからCさん独特の哲学的解釈が入る。見えないものを語るには、見えるもので語るしかない。したがって、見えるものの立場で、見えないものに向かう。言い換えれば「語りえないものを、語りうるものを通して語る」となる。その態度が、つまりここで言う「上達」なのだとCさんは言うのであった。

そしてほかの「上達」の項を参照しながら、子路第13の23を読む。
【子曰はく、君子は和して同ぜず。小人は同して和せず。】
そしてさらに【子曰はく、賢者は世をさく(避けるのつくり部分の漢字)・・・】の項に至り、「賢者七人」から、政治や世情のホットな話題へと発展していったのである。「和して同ぜず」実にタイムリーなお言葉。「同して和さない」お歴々に、じっくりとかみ締めてもらいたい言葉である。