目を閉じて

東中野で行なわれたサマー・アート・スクールの企画「視覚を越える造形」に行った。その一貫として西村陽平×茂木健一郎ディスカッションがあったからだ。unaとはご近所だし、視覚障がい者の美術教育を長年やっているという西村氏の活動にも興味があった。西村氏は温和な感じの方で、いまや戦う科学者と言われる茂木氏と丁々発止のディスカッションとはいかず、スローな時間が流れた。
「現代は視覚優位の世界になっているけれど、盲目性からは政治性が消えていく。目が見えなければ戦争できないですものね」と茂木氏が発言した。それを受けて中途失明の全盲の参加者が、「確かに、悪いことはできませんね。もし目が見えていたら、もっと悪くなっていたかもしれない」と言われ、可笑しかった。

web画面で、西村氏のやってきた視覚を遮断してのワークショップ参加者の感想を読んだ。

目を閉じて、手で触れると、物の雰囲気をとても感じることができる。
チンゲンサイは、ふくれあがっていくイメージだ。
中からふくらんでくるエネルギーを外で受けとめると、生命は生きているという感じで、とても幸せな気分になった。チンゲンサイがいとおしく思えた。
内から沸きあがるエネルギーを感じて、はじめて形になる。私は、かたちはつくるのもだと思っていたが、本当ははじめからあるものなのだと気がついた。
かたちは、はじめは、みえないのだ。目をとじて、はじめて、それが見えた。

確かに、視覚を遮断すると、いつもとは違う感覚が蘇える。以前書いたが、unaのキャンドルナイトの時に、ろうそく一本の光で食べたときの感覚は新鮮だった。先天性の視覚障がいであっても視覚野は働いているそうだ。脳内での視覚の空白部分に、違う要素が入り込んでいるという。また、元々はあらゆるところが目であり、耳であったはずで、進化の過程で分化、分岐していったと考えると、視覚が欠損しても、他の部分がその役目を果たすようになるだろうと想像はできる。ずっと以前に、人より早く走るという全盲の方の話を聞いたことがある。彼は、手の甲をかざして歩くそうだ。そこが目の役目をしているらしく、傷害物を避け、さっさと歩くので、誰も全盲者だと気がつかないということだった。だからそういう話は大いに納得できた。

ときどき色々な器官にBlindを降ろしてみると、見失っていたものが見えてくるかもしれない。
目を閉じてみる。いま外は蝉しぐれ。その先で、カアカアとカラスが鳴く、ツツピーと鳴く鳥の声。鳩の声もした。単に蝉しぐれと言っても、単一な音色ではない。ジージーと鳴くアブラ蝉の中に、ミンミン蝉の声が混じっている。カナカナもいる。それらが波のようにうねって聞こえてくるのだ。その中で、車の音も通り過ぎていく。