言葉と知覚

朗読ゲーム「ロクロの会」というのを月一でやっている。各自読みたいものを持ち寄る。ランダムに決められたものを順番に読んでいくだけの単純なものだが、それが意外におもしろい。まず人の声を通して聞くこと。初めて目にする文字を追いながら声を出すこと。知らない本や作家に出会うこと。そして、同じ場を共有しながら、実にさまざまな感想に出会うこと。

で、ロクロに参加しているRくんが、言葉についてこんなことを書いていた。彼は詩を書いている人。

先日、眠りに落ちる前というか、そのさなかに、頭の中の言葉がすうっと雪が解けるみたいに消えて、あわい色彩や流れるようなイメージに浸されるのをかいま見た。
そのときにはもう言葉では考えていない。
ただ見てるだけ。そして記憶もきれて、眠りに落ちてしまう。

それで、言葉は意識のごく表面に膜を張るわずかな存在であり、まず意識が最初にあり、そのイメージを言葉で捉えようとしているのか…と書かれている。

「言葉は意識のごく表面に張る膜」という言葉に、「そうだよなぁ」とうなづいた。ついつい言葉を過大評価してしまう。言葉にこだわって言葉に翻弄されてしまう。言葉の張る膜によって、中身を見ずに過ごしてしまう。言葉は便利だし有効だ。けれど、言葉で見失っているものがあるかと思う。

言葉は後天的なものだ。環境のなかで獲得する。しかし、それがなかったとしても、知覚していないわけではない。言語化せずとも、脳を介さないわけではないだろう。その辺はよくわからないけれど、言語に置き換えないだけで同じように知覚はしていると思う。でも、ではそれって、どういうことなのだろう…となると、さっぱりわからない。知覚したという自覚ってあるのかなぁ?どう学習、記憶するのだろう? 15万年前には言葉の遺伝子はなかったというし…あぁ、、、わけわからなくなってきた。

でも私は全く根拠はないのだけれど、「型押し」のようなイメージがある。印象されるというか、いい意味でのダメージという形…どうなんだろう、その辺のことは。しばらくそのままにして、携帯していよう。