歴史とは切ないものなのか

茂木健一郎氏のブログから飛んで、彼が来訪したという川村隆夫氏のページを見た。文化財としての家に佇む茂木氏の様子や言葉がそこに紹介されていた。

「雑草が生い、苔むす河村家の風情には、時間が見える。ながい時間のながれが見える。それが歴史というものなのだろう。」

この文章を読んで、「ああ、そういうことだったのか」と納得したことがある。
それはずっと不思議な感情だった。フォークの神様と言われた高田渡さんが先日亡くなった。知人に彼と近しい人はいるが、私自身はそれほどのファンでもなかったはずが、そのことがこころから消えないのだ。彼の存在がそれほど大きかったのか…と驚いてもいた。彼を想う時の、あの込み上げるような、言い表わせない感情はどこからくるのだろう。なつかしいような、愛しいような、せつないような、哀しいような…。

それはもしかしたら、茂木氏の言われた「時間が見える」ことから起因していたのではなかったかと思い当ったのだ。流れた長い時間の中に、「歴史」というものを感じていたからではなかったかと…。高田渡の初期のアルバムにある姿と、晩年の姿。何かむきになっているような少年の横顔と、髭を蓄え、皺を深くし、哲学者のような晩年の風貌。そこに高田渡として生きた時間の経過が見えたのだ。ひとり生きた歴史を感じたからなのだ。きっと。それがせつなさを込み上げさせていたのではないだろうか。その間にもたらされた諸々で膨大な時間が愛しい。歴史とは切ないものと気づく。