日々学んでいる“何か”

内田樹氏がブログで「学び」について書かれている。多分『先生はえらい』先生はえらい (ちくまプリマー新書)の視点と同じだと思う。
例えば

赤ちゃんが母語を学んでいるとき、赤ちゃんには「言語」という概念がない。もちろん「コミュニケーション」という概念もないし、「熟練した母語運用能力を生かした職業に就きたい」というような就活事情もない。赤ちゃんは「自分が何を学んでいるのか知らないことを学んでいる」。それどころか「『学ぶ』とはどういうことかを知らないうちにすでに学んでいる」のである。(略)自分が何を学んでいるかを知らず、そもそも自分が学びのプロセスに巻き込まれていることにさえ気づいていないというかたちにおいて、遂行されるものなのである。

という見方。なるほどと思う。内田氏はこのような見方、指摘をよくされる。私はそのようなことをついつい忘れているときに、出会うので「そうだったそうだった」と気持ちを改めるのである。これによると学びは苦痛にはならず、かえって喜びと言える。一方、知識や技能を獲得しなければならない事情もあるだろう。内田氏はそれを否定しているのではなく、他の括りで呼んでいるのだろう。それを私は知らないのだが、昨今学びの勘違いが多いので、グッと本質に引き戻したいと思われての発言と思う。

確かに学童期をとおに過ぎた私は、いままで知らなかったことを知ったり、気づいたり、つながったりが、一番の喜びになっている。従って知識の獲得も楽しい。目的もないので、速度も完成度も自分のペースでいい。忘れても気にならず、しかし、それが知らずに何かの学びになっているという感触はある。何かの学びとは「生きる」につながる何かなのではないか・・・