十分な情動の発露

三茶にある昭和女子大学のシンポジウムに行く。
佐世保事件から私たちが考えたこと」というシンポジウム。『おそいはやい』などの雑誌を出しているジャパンマシニスト社が、その事件を追った保坂展人氏のルポルタージュと、各分野の方との対談の本を出していて、それ関連の企画だった。対談しているゲストは精神科医石川憲彦、カウンセラー内田良子、社会学宮台真司、監督作家の森達也各氏。編集した保坂・岡崎勝氏。

まず、驚いたことはあの事件からまだ一年も経っていないということ。もう遠い過去のような感覚になっている。その間丁寧に取材をしてきていた。長丁場だったが、メディア、社会面、心理的な面と、いろいろな角度から話が聞けた。

内容から少し離れて、強くこころに残ったことがある。教師Oさんが自分のクラスで起こったことを話した。彼は世の中の出来事について生徒と話し合ってきた。しかし佐世保事件があった翌日は、あまりに衝撃が強くそのことを話す気にならず、触れずに授業を終えた。すると、ある女生徒が(大人びていて優秀なというニュアンスだった)「先生佐世保のことはやらないのですか」と言ってきたという。クラスにはそのことに触れると想定して、切り抜きや、まとめをしてきている子がいたそうだ。その現象をみて、「自分のしてきたことが果たしてよかったのか・・」と彼は自問した。彼自身は事件に動揺し、まだ触れる余裕がない状態。にも関わらず、生徒はすでに準備をしてきている。理性的な振る舞いのようだが、それは情動を超え、ひとつの手続きとなってしまっているのではないか…。そのことの危険を想った。彼の感覚がわかる気がした。

というのは、先日の茂木講座での「行動主義」を思ったからである。自閉症アルゴリズム(計算とか手順)を発展させると言われている。つまりこういう状況の時にはこういう行動を起こすということがシステムになっているというものだ。聞くところによると、自閉症の人は相手がマネキン人形のように見えるそうだ。つまり表情などからの情報を受信できない(彼らにとって。どんなにつらい状況か)。で、彼らにこういう仕草は怒っているとか、うれしい、などと対応策を授ける。それと同様の脳内処理を想像したからだ。

後の食事会で子どもと関わってきたA氏が、自由で十分な情動の発露の不足を力説していた。私もまずは湧き上がる情動に出会うことが、成長期には必要な気がする。正も負も、特に負の情動とつき合うこと。大変だけど、むやみに押さえ込まれるのは好ましくない。