現代アートと詩

高橋源一郎氏のブログに「荒川洋治さんの『詩とことば』の一節」として引用されていた言葉。詩とことば (ことばのために)一部を再引用

白い屋根の家が、何軒か、並んでいる。 
というのは散文。詩は、それと同じ情景を書きとめるなり、『白が、いくつか』と書いたりする。そういう乱暴なことをする。ぼくもまた、詩を読むのはこういう粗暴な表現に面会することなので、つらいときがある。だが人はいつも『白い屋根の家が、何軒か、並んでいる』という順序で知覚するものだろうか。実は『何軒かの家だ。屋根、白い』あるいは『家だ。白い!』との知覚をしたのに、散文を書くために、多くの人に伝わりやすい順序に組み替えていることもあるはずだ。 
 詩は、そのことばで表現した人が、たしかに存在する。たったひとりでも、その人は存在する。でも散文では、そのような人がひとりも存在しないこともある。『白い屋根の家が……』の順序で知覚した人が、どこにもいないこともある。いなくても、いるように書くのが散文なのだ。それが習慣であり決まりなのだ。 散文は、つくられたものなのである。 
 ……中略…… 
 散文は、果たして現実的なものなのか。多くの人たちに、こちらの考えを伝えるためには、多くの人たちにその原理と機能が理解されている散文がふさわしいことは明らかだ。だが、散文がどんな場合にも人間の心理に直接するものなのかどうか。そのことにも注意しなくてはならない。そのことにも注意しなくてはならない。詩を思うことは、散文を思うことである。散文を思うときには、詩が思われなくてはならない。ぼくはそのように思いたい」

高橋氏は「その通り!」と絶賛。この認知の問題を、絵画の世界に置き換えても大変おもしろい。現代アートはさしずめ「詩」と言えるわけだ。「あ、家だ。白い!」。その「白い」をどう表現するか。なぜ白が「!」だったのか。またその「!」だけを取り出して、表現しようとしたりするかもしれない。そう思うと、また違う視点での興味が沸いてくる。