“途中”の魅力

人と話すのが好きだ。しかし、完成された人というか、完成していると思い込んでいる人はつまらない。答えを持っているという感じがどうも。自分(の答え)を疑わないその自信はどこからくるのだろうと思う。答えなどそうやたらに転がっているものじゃない。また他人にとっての答が、自分にとっての答えとは限らないし。それでも、それが揺らぐ余地を持っている人は、またそれなりにおもしろいけれど。

人と話すということは、相互作用。つまらないと感じる人は、それが一方向的であるからだ。必ずしも言語の行き来である必要はないが、相手の言葉をいったん自分の中に取り入れ、そこから生れた言葉を、相手に返す。そういう相互作用。人と会う楽しみはそういうところにある。

なんだか青い話になってしまった。というのも、先日「途中」を感じさせる若者たちと話したからだろう。私は「途中」という言葉が好きだ。途中は完成(ゴール)に到達していない。しかし確かに進んでいる。過程なのである。未完成ではあるけれど、その模索のなかに、問いや揺れがある。空白もある。それらの不定なものと不定なものが出会いながら、どんなふうに化学変化していくのか・・そこに、キラキラした可能性を感じるのだ。
もちろん自分自身も途中である。ずっと。だからいつでも化学変化は起こる。