なつかしき児童文学

年若い友人が児童文学の講演会に行ったことを日記に書いている。一握りの男性の他は「ほとんど業界人って感じの中高年おばさま」だったそうだ。しかも「品行方正ないい子の匂い、女性運動の匂い」がするのだそうだ。それが世界を狭くしている。息苦しいという。“児童文学好きのおばさん”の私としては、痛い御ことば。しかし、「わかるなー」と妙に納得もするのである。実際、目に見えるようだもの。そういう感じ、私も苦手。

私の場合、子どもの成長とともに絵本から自動的に児童文学に移行した。大学の公開講座を子連れで聞きに行っていたこともある。絵本もそうだったが、何より自分がはまってしまった。冒険や危険にワクワク、ヒヤヒヤする。しかし、そのあとに必ず「わぁー」という感激の終章が用意されている。それが思い切りヒヤヒヤできる理由だ。着地がしっかりある。トールキンなどの古典もいいが、フィリッパ・ピアスハヤ号セイ川をいく (講談社青い鳥文庫)
シェパートン大佐の時計 (岩波世界児童文学集)とかフィリップ・ターナーの作品が気に入っていた。どうも私は少年ものがお好きのようである。『ロケットボーイ』も好きだしー。

業界系おばさまたちの対象は外国文学が主だが、私が最初に気に入ったのは『くまの子ウーフ』の神沢利子さんだった。彼女は樺太、北海道で育ったせいか、発想が壮大なのだ。広ーく、凍てついた台地と一面の星空の絵が浮かびあがってくる。『ちびっこカムのぼうけん』ちびっこカムのぼうけん (理論社名作の愛蔵版)『ヌーチェの冒険』などなど。これらもちびっこい少年たちだ。

ずいぶん昔の話になってしまった。もう一度読んでみたい気がするが、いまそれらの本はたいてい絶版か品切れになっている。残念である。