メメントモリ

吉田兼好の『徒然草』93段。牛の売買が成立したが、前夜牛が死んでしまった。買う予定の人は買う前で得をしたと喜び、売り手は災難だというが、売り手はそのことで死はいつも傍らにあることを知ることになり、決して損ではない。でも人々はそんな考え方を嘲るーーという内容のくだりがある。
隠遁とか世離れのイメージがあった兼好さんだが、例えは暮らしからのものが多く、以外に人と交流があったのではないかと想像するが。それはさておき、牛の死は、当時としては大変なことだったろう。今に換算すれば家一軒くらいか? ともかく牛は大きな財産であったはずだ。その牛を一晩で失う。目の前の損得にこころを奪われて、そこにある大事なことを見逃してしまうよ、という戒めと受け取ったが、家一軒となると、なかなかそこまで達観できそうにない。

それでも、書いたものを読んでいる時点においては、いろいろ気づくことができる。売り手の立場を考えてみれば、なぜ死が牛だったのか…自分かも知れなかった。と、命あることに感謝することができるだろう。また死とは保証のないもので、だれにでも突然に訪れるものだと気づくこともできる。「損をした」と編集してしまうと、その死が無駄になるどころか、恨みや悔いを生むことになる。その事件をどう捉えるかで道は大きく分かれる。一方買い手もラッキーと思っている限り、そこでストップしてしまう。そこから何も学べない。

はて、こんな考え方って、いまセミナーなどで盛んに語られている思考法なのではないかしら? 人間に進歩がないのか、兼好さんが先駆的だったのか…。