マザーシップ

知人以外の何人かのHPを読んでいる。著作だけで面識のない人もいるけれど、それが結構おもしろい。著作(専門)から離れた文章の方が好きだったりして…。古くからの知人島田裕巳氏から出版のお知らせと、HPの情報が届く。<宗教学者>の本はなかなか読む気になれないでいたが、力が抜けた感じの日記は親しめる。

内田樹氏の日記(http://blog.tatsuru.com/) に、ゼミのゲストでお願いした高橋源一郎氏の講義にマザーシップを感じたという話があった。(以来高橋氏のHPも読み始めた)おじさん的内田氏は、深く得心し、これからは「お母さん(おばさんではなく)」になるという。

ソクラテスは「産婆術」ということを言ったけれど、高橋さんはその意味で「マザーシップ」の人だった。そのことがよくわかった。「マザーシップ」(マザーフッドじゃなくてね)というネオロジスムに固有の含意については『東京ファイティング・キッズ』に書いたけれど、高橋さんは「文学のお母さん」であった。
それは最後の時間に、生徒たちが(おそらくほとんどの人が生まれてはじめて)書いた「小説(のようなもの)」について高橋さんが、厚みのあるゆったりした声で朗読し、それらの断片が潜在させている可能性のひとつひとつをピンセットで拾い上げるように、ていねいに光にかざし、その最良の部分を示してくれる手際において際だっていた。
そうかー、今の日本に決定的に欠けているのは「マザーシップ」なんだ・・・ということを私は深く深く得心したのである。

ちょっとそのことを考えてみようと思った。と、思いつつ、ずっーと言葉にしていない。書いてみないことには、先に進まない。で、ここでつらつらと書いてみることにした。
内田氏がいままでを振り返り、蒙昧だったという、その仕方がどんなだったかは存知あげないが、「お母さん性」と「お父さん性」について勝手に考えてみる。もちろんどちらの性であっても、両方に持ち合わせている性向だ。それをどんな場面で発揮させるか。教育といっても、子育て、部下、患者、広く共通する。うっ、ちょっと大仰過ぎる。手におえないかも。まあ、今回はここまで(続く)