常に、「わかったつもり」でしかない

先日“人は、誰でもかけがえのない「個」である”と同時に、誰でもない「ある人」なのだ。そういう話をCさんから聞いたと書いたが、その類の話は前々から聞いていたことだ。が、今回は少しだけ深いところで腑に落ちた、ということなのだ。それは、立つ位置が移動したことで、以前を見ることができ、いまとの比較が可能になる。

「わかる」とはまさに「わかったつもりになる」と「更新」の繰り返しではないかと思う。理解度の階層というより、螺旋の前進というか…。先日亡くなったクリック博士たちの発見したDNA構造ではないが、人の理解も二重螺旋のようになっているのではないかと想像する。他の要因が絡み合いながら、以前の位置からは確実に距離が生まれていく。おもしろいのは、ひとつの変化があらゆるものに波及して、さらにそれぞれの変化を誘発していくことだ。

そうすると、以前読んでいた小林秀雄のこんな文章が、また違った光を放ちだす。季刊雑誌『考える人』に坪内祐三氏が引用していた文章である。

<美しい『花』がある、『花』の美しさという様なものはない>
<言葉は眼の邪魔になるものです。例えば、諸君が野原を歩いて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう>(筆注)現代仮名使いに変更しました

不思議なことに、今までとは違うリアルさでこころに入ってくる。「ああ、そういうことだったのか」。そして「菫という名前の花を、それでも眼を閉じずに見続けること」、そういうことなんだな、と思い至るのである。