自由という不自由

K書店でルソー『孤独な散歩者の夢想』、そして中沢新一赤坂憲雄の『網野善彦を継ぐ』を買う。その後単身上京している若者とさしで会食をした。複数でいると話題も中断したりして、なかなか落ち着いて話すことができない。そうは言っても、大部分を世間話に費やすのだが…。

結局、自己承認の話に収束していった。身内も含めてこのごろの人に感じる“浮遊感”がある。彼等の世代は「こころの安全地帯」の確認のないまま、いきなり広大な原っぱに立たされ、そして「好きに遊んでいいのよ。さあ元気に遊んでいらっしゃい!」と肩を押された。彼等は気の遠くなるような大地と気の遠くなるほどの自由を前に、呆然と立ち尽くした。
どこに立っているのか、実感できないまま、いまだに手におえない広大な原っぱを前に立ち尽くしている。彼等の深層にある暗い流れを感じるごとにそんなイメージを抱く。

実はそんな中でも、ともかくしゃがんでみればいい。自分サイズのテリトリー。そこには草叢に這う小さな虫たちや、小さな花たちが見つかる。そこからとっかかりができるはずなのだが…。

しかし、やさしく原っぱに送り出したのは、私たちの世代であった。自分たちのころには原っぱには柵があった。やがてその柵を開放しようとしたのだが、とりあえずは柵のなかで遊びはじめた。いま、彼等にとってともかく「認識できる広さ」が必要なのではないか、と思う…。手の届く広さから、遊びはじめる。泣いたり笑ったり、怒ったりして初めて、何が好きなのか、何が嫌なのかを獲得する。それがこころの安全地帯を形成する。そんなことを思う。

それは規制とか管理という方向ではまったくない。そうではなくて、自己信頼につながっていく方法だ。安全地帯とは不安がない場所だ。たとえやぶれやほつれがあっても繕える関係がある場所? それを試行錯誤してみようと近ごろ思う。