直球と変化球文化

川柳とか都々逸というのは、ことばを一ひねりしてある。そのひねりが茶化しだったり、皮肉だったり、拗ねだったり。そこに感情の行き来を感じるのがいい。

「こうしてこうすりやこうなるものと 知りつつこうしてこうなった」

という都々逸があるそうだ。これはすごいゾ。何も言っていないのに、言っているのだ。実に日本的な世界観ではないか。しかもそこには時間の経過や、感情の揺れが表されてもいる。肯定的な感情と否定的な感情が行き来する。それになんとも艶っぽい。

たったの26文字で、表されてしまう世界があるのだ。笑えるものや、しみじみするものもある。昔の人は「ことば」を上手に遊んだ。それに仕草や音がついて、多様な花々が咲いた。日本の、とりわけ庶民の知恵の豊かさの所以。昔のほうが民度は高かったのではあるまいか…と情けなくなる。しかもその智恵を受けつないでないしー。

今どきの人は、言葉に翻弄されすぎる気がしている。言葉で傷つけ、言葉に傷つく。直球が必ずしもこころに届くとは限らない。言葉を自在に使いこなす智恵と余裕を持ちたい。だがしかし、変化球を投げ、受け止めるのは、そう簡単ではない。つまり分母(共通言語)をそろえなければならないからだ。「こうしてこうすりゃこうなる〜…」と言われてみても、まったく思い描く世界が違っていては、コミュニケーションにならない。通分(文化)の道は険しいのだ。

因みに、都々逸に興味ひかれたきっかけは、三味線音曲師の柳家紫文さん。都々逸もこなす彼が「都々逸は業を肯定している」と言われた。私はいっぺんに都々逸が好きになってしまった。