淵とか際の持つ可能性

すっかりサボってしまった。書きたいことがいくつか通過していった…。さて、手元に、ある講座でもらった中沢新一氏の資料がある。出典はわからない。観世音菩薩のことと関連しての記述だ。そこにルソーの『孤独な散歩者の夢想』からの引用が載っていて、それらの感覚を中沢氏は飼い犬の疾走から感じたとったというものだ。


「略ー他の生命体を、自分とまったく同じ資格を持って生存している有情として見出すことが、すべての出発点となる。そして有情たちに深い共感をもって向い合うこと。私は、大切にしていた犬を失うことによって、大乗仏教の偉大な思想を、あらためて思い起こすこととなったのである。」
観世音菩薩と言ってしまうと仏教思想の中のことと括られてしまうが、仏教のこととしなくても伝わる感覚である。そして傷心のルソーが一人野原を散歩していて、転倒したくだりになる。


「略ールソーは自分と自分の目の前にある植物とを分け隔てている壁が、まったく溶け去ってしまっているのを、感じたのだった。自分が世界に包まれているという感覚、地上をみたすありとあらゆる生命が、自分と別のものではなく、お互いが共感の能力によって、巨大な連鎖に結ばれていること。」
ルソーは人間の生活圏から追放されることによって、真のつながりを発見することができ、そして、それは恍惚と歓喜に包まれることでもあった。その体験は大乗仏教でいう「慈悲」の思考の働きだと中沢氏はいう。私もじつはそんな感覚を持ったことがある。不思議なことだが、確かに傷心の時だった。あとは詰まりに詰まった後。きっとそういうことは意図してできることではなく、突然に訪れるという感覚だろう。ただルソーのたとえのように、精神の瀬戸際のところで喚起される気がする。