身は限りあり事は尽きせず

6月に突入。2004年もはや半分が過ぎたことになる。速すぎる…。外国籍のCさんを講師に迎えての『徒然草』。毎回示唆に富んだ話。その日も彼は「私たちはみな死刑宣告を受けて生まれてくるのです。宣告はいつ下るかわからない。明日かもしれないのです。そう考えると、一日も無駄には生きられないはず。けれど、それを私たちはつい忘れてしまって、ずーっと命があるかのように無駄なときを過ごしてしまうんですね」と言う。イタ・タ・タ。耳が痛い話だ。

哲学、思想、宗教に詳しく語学堪能。彼の解釈を聞くと、翻訳以前の解釈から入り、おもしろい。今回はレヴィ=ストロースの比喩からだという、胃袋の話。胃袋は食物を取り込み、腸に送り出す。いつも入ってきたものを消化して空にするために動くのが胃の宿命。つまりは「空っぽ」の胃の状態が、胃には健康ということなのだ。食物は実体ではないので、それに固執せず、手放していくべき。貯めていてはいけないのだ。食物ではなく、胃である袋の問題として考えることが重要なのだ。胃の内容物が知であり、胃袋そのものに関することは智。「学ぶ」とはそれに関わること。


…ということを、「こころ(脳)」に置き換えてみる。心に去来する様々な思いとしての内容物と、袋としてのこころ。内容物である「物」とは「意識」だそうだ。それは自分達で意味付けし、作り出しているもの。したがってどんどん消化して押し出さなければいけない。大事なものは、無意識、下知識と言われる「袋」なのだ。「なるほどなるほど。わかりやすい」。いわゆる「胃がもたれる」状態とは、消化せずに胃に停滞させていること。食物に執着しているということになるのだそうだ。ということは、「こころがもたれる」状態もあるはずだ。沸き出る雑念に執着してしまうこと。ではそれを手放す術は?それが問題なのだ。

自分達で意味付けしたものであるにも関わらず、それに翻弄されている。持っているつもりが持たれている。いつのまにか意味(食物)に支配されている自分。こころしよう。