脳と日常

注目の若手脳科学者(62年生まれ)、茂木健一郎氏のお話を聞きに行く。聴くのは二回目である。前回もおもしろい事とは言え、困難なことに注目している人だなぁと思ったが、今回はまた「すごいことやってるなぁ」と違った感慨を持った。彼は養老さんが師匠筋で、「脳のクオリア」の研究者である。クオリアとは「質感」という意味。大脳だけではなく、統合された脳の全体像の謎に挑んでいる。忘備録として。あくまで自分勝手な解釈。


私たちはガラスのコップ、陶器のコップを知覚し、認識するのだが、その時にガラスと陶器を区別して感じている。また人の肌合いとか羊の毛と羽毛の感触の違い。それらを区別して「ああ、あの触感」と感じることができる…。なぜなのか?そのことの不思議を解明している。…たぶんそういうことのようだ。これは闇夜の嵐の中へ単独船出したようにすごいことだ、と感心したのである。いままでの科学とは数式で表せるものだった。しかし、質感というのは数値で表せないものだからだ。これは先日の玄侑宗久さんのお話にも通じることだった。因果関係で現せるものだが、科学として認知され、あとは偶然とか、たまたまということで処理されてきた、というお話。


で、彼はこんな例を出した。太陽は月の465000倍。数式で表せば太陽=月×465000になる。しかし、月が465000個になっても太陽とは明らかに違う。それは当たり前、周知のことであるけれど、コンピューターではその区別は困難なことなのであった。また、人が話しているときは一方は聞いている、たとえば同時に話しはじめてしまっても、お互いを慮って、どちらかが話を止める。(自閉症はそれができない。他者の認知、読み取りの障害だそうだ)これは幼児でさえできていることだけど、コンピューターはできない。つまりあらかじめインプットしてある情報を駆使することはできるが、予側不能なことをライブで判断する対応がまったくできないのがコンピューター。


さらに彼は「数学や数式の理解なんて簡単なことなんです。脳の働きで最も難しい働きはコミュニケーションなのです」と言う。「おお!」、私の胸は高揚した。「そうなのか」。幼児がおばあちゃんと話すときと、保育園の先生と話すときでは、自ずと対応が違っている。幼くしてなにげなくやっている脳のすごさ。このごろ、すべての問題はコミュニケーションに行き着くと痛感しているのだが、コミュニケーションに難アリの昨今の現状は人間がコンピューター化しているということになるのか…。逆流現象?以降グンと話しに引き込まれる。

では、そういった情報の判断はどこでなされているのだろうか? そこで脳情報伝達システムに、さらに情動系の「こころ」とか「意識」という厄介なものが入り込んでこざるを得ない。そこが最も困難であり、また解明の待ち望まれている分野でもあろう。茂木氏はそこのところを研究している、だからスゴイのだ。(でもおもしろそう)話題は他者の認知とか自意識の問題、他者の視線と発達、脳の創造性などへと展開。悔しいが私の頭脳では説明しかねる。悪しからず。


茂木氏に親近感とおもしろさを感じたのは、幼いときから人が通り過ぎていること、当然だと思うことに「?」を持ってきたエピソードであった。ニュートンのリンゴと引力の発見のように、人が「あ、そうか!」と気づくところは、それぞれである。彼は小林秀雄氏のベルクソンについての講演テープ?を聞いて気づいた「主観と客観」。目からウロコだった。また京浜東北線に乗っていて、電車の音がリズムのある音に聞こえ、突然気づいたクオリアという概念。そして体験していた解剖学の三木成夫氏の講演の記憶の喚起から、「思い出せない記憶」の存在に気づく。


前頭葉が最も活動するのは不確定要素のときだという話には驚きもし、納得もした。まさに他者とのコミュニケーションのときではないか。他者の存在を意識することで、自分が変化する。たとえば母親や認めてもらいたい人の視線を意識することで、AはA’に変化する。それが関わるということだと思っている。変数の他者の存在が変数Aを変化させるのだ。


つまりこのような不確定要素の環境は何かと言うと、なんということはない、日常そのものである。つまり日常的な暮らしが一番脳が活性化し育つ、と彼は言わんとしていた。これは先日お話を聞いたばかりの、美術家島袋道浩さんの視点でもあった。私の中では玄侑さんの言われた、因果律に則らない共時性の話、また島袋さんの暮らしのなかにある創造性と美しさ、そして茂木さんのお話と、一連なりの出来事であった。


最後にもう一つ、興味深かった話。ワーキングメモリー(言わば一時記憶、短期記憶?)に情動系情報が作用し、海馬や大脳皮質が関わり長期記憶になる。いわゆるエピソード記憶というものだそうだ。そこから長期記憶でも意味記憶というものに移行するものがある。これはコントロールできないものだそうだ。意味記憶とは知識が血肉化したいわゆる智恵と言われるもの、または感性というようなものではないか、と私は理解したのだが…。いかがだろうか。意味記憶はコントロールできない、まさに日常の暮らしの積み重ねからし意味記憶になっていかない。最後に茂木さんは「だから日常が大事なんです」と言われた意味は、そういうことではなかったか。


全国で脳科学者は2800人もいるそうだが、細分化された研究分野で手一杯。脳全体を見渡す人がいないのだそうだ。だから、こころと脳の関係を探求する茂木さんには今後もいっそうの活躍を期待したい。